らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【作文】

カーテンの向うはすでに暗くなりかけていた。途中で起きることもなくよく眠っていたらしい。しかし体調は朝と変化のないものだった。入社して一年と半年。会社を病欠したのは今日がはじめてだった。朝、身体が火照っている気がしたから体温を測ってみると三十八度もあった。思えば昨日の夜から風邪らしい症状はあったのだ。熱があるため休みます、と連絡した後、薬を飲んでベッドにもう一度入った。風邪をひいたこと自体も久しかった。目を閉じてから、三十八度といってもたいしたことはないな、と思った。子供のころに三十八度まで上がると全身が怠くて歩くことにすら莫大な気力を要したのに。その一方で今は子供のころと違って看病してくれる人などいないのだった。なんとなく寂しくなって子供のころを回顧しそうになったが、眠ることに集中した。治すことが最も優先した。明日も仕事があるのだから。そしてすぐに眠ってしまったらしい。外は夕方になっている。目が覚めた直後は体調の変化に気付かなかったが、朝より悪化している。寒気がする。寝ていたときにかいた汗で肌がじとじとして気持ちが良くない。枕元に置いていた水を飲む。身体が朝と比べてずっと思い。動こうと思えない。このまま横になったままでまた眠ろうか。身体を横にして目を閉じた。咳が二回出た。身体に響いて体力が奪われる。この風邪は明日までにおさまらないかもしれない。仕事のことが心配になってきた。咳がまた出た。くしゃみも出た。するたびに体温が上がっていく感覚がある。水といっしょにティッシュも置いておいて良かった。何枚かとろうとして手をのばすと、床の上で小さいものが動いていることに気が付いた。小指の爪ほどのものが四つか五つ動いている。人型のものが、立って座ることを繰り返している。体操座りをしては立ち、体操座りをしては立ちあがっている。形は人間だが全身が黒く、三角帽子を深くかぶって顔は見えない。あれらはなんだろう、気味が悪い。見慣れないものはそれだけではなかった。人型から少々離れたところに、葉をつけた木が十本ほど群れをなして床から生えている。二、三センチぐらいの大きさで真っ赤な幹に白い葉であるが、木の姿ではある。フローリングの床に吸着させるように根を張らしている。人型はまだ立ち座りをつづけている。今見えていることは一体現実なのだろうか。高熱を出してしまったせいだろうか。沸騰しそうな脳がつくりだした幻影なのだろうか。幻影に違いなかった。冷静になれたら事態は大きく異なってくるだろう。いつもの清潔な床があって動くものなど何もないはずだ。だが今は熱があって冷静になれないだけなのだ。急に頭痛がしてきた。目の奥までが軋むように痛む。頭の芯を鷲掴みされてこねくり回されているようだ。そして突然痛みがやんだ。鼻の横に水たまりができるほどに顔いっぱいが汗で濡れている。それが蒸発して雲のようになって天井にのぼっていった。雲はゆっくりと体積をましていき、天井全体を厚く覆った。すると電灯が点けられた。スイッチはベッドの上の方にあるが、押してもいなければ触ってすらいない。雲があるために部屋はいつものようには明るくならない。明りは雲で散乱して部屋全体をぼやけさせながら等質に照らしている。どこからも影が消えた。そして喉で何かが蠢くのが分った。それは喉の中でふくれあがり、喉が破裂しそうになったそのとき、強烈な咳となって口から一気に溢れ出た。粉のように飛び出たが、粉ではなかった。飛び出たのは綿毛だった。小さな綿毛が空中に浮遊していて滑らかな軌道を描きながら舞い降りていた。数は分らない。数百はあるだろう。ベッドや床の上、置いてある机の上にも落ちた。それらひとつひとつは段々と黒くなっていき、みるみると三角帽子をかぶった人型に変化した。やはりその場で体操座りをしては立つことを繰りかえしはじめた。布団の上には三十ほどの人型がいた。顔のすぐ傍にも五ついた。一番近くにいる人型の体操座りと立ちあがりの繰りかえしを見ていたら、部屋の向うの隅の雲が焦げたように黒くなっていく光景が目に入った。そしてその勢力をました暗雲は雨を降らせはじめた。部屋の四分の一が雨に降られていて、電子機器や服がびしょ濡れになっている。雨だけではなかった。その雲は雷雲だった。一閃の電撃が走った。しかし雷はその一度きりだった。徐々に雨もやんで天井には白い雲があるのみとなった。だが床の上の様子が雨の前と違っていた。雷が落ちた周辺にいた人型は体操座りと立ちあがりの繰りかえしをやめて、一箇所に集まっているのだった。そこだけが黒い塊になっている。なんだろうか。何があったのだろうか。気力を振りしぼって身体の向きを変えてよく見てみると、人型が一体倒れているらしいことが分った。おそらくさっきの雷に打たれたのだろう。死んでいるのだろうか。人型も死ぬのだろうか。倒れた人型のまわりを囲んでいる人型たちは涙を流しはじめた。ならば多分あの人型は死んだのだろう。人型たちは死んだ人型を運びはじめた。雨で濡れた床の上にそのままにしておくのは忍びないとでも考えのだろうか。死んだ人型は壁にもたれながら座っているようにして床に置かれた。死んだ人型のまわりを囲んでいた人型以外の人型もみな体操座りをするのをやめて、その始終を立って見ていた。帽子で目が隠されていたから見えていないのかもしれないが、死んだ人型の方に身体を向けてじっと立ったままでいた。誰もが石のように動かない。部屋の全てが停止した。雲も見守っているかのように動かない。しかし時間は再び動きだす。人型全てが唐突にこちらを向いた。数百もの人型が一斉に。異様なありさまだ。人型は何かを求めているのだ。何を求めているかどことなく分る気がした。目を閉じてみると人型の喜んでいることが見なくても感じとれた。眠ることを求めているのだ。眠ることが求められているのだ。眠ることにした。眠ることが求められているのだから。そう決めたとたん、眠気が意識を引摺りおろした。抵抗はしない。求められているんだから。目醒めはいつも前触れなくはじまる。どれくらい眠ったか見当がつかない。眠ったのだった。そして目醒めたのだった。部屋は様変わりしていた。鉄道網が敷かれていて、列車がいくつも走っていた。一部の領域では高層ビルが林立している。高層とはいってもせいぜい机と同じぐらいの高さではあるが、そこではあわただしく仕事が行われているようだった。また、木が密集して生えている領域もあった。椅子や広場も設置してあって、つまりその一帯は自然公園なのだった。自然公園を突き抜けるようにして川が流れていた。床は線上に掘られてその上を流れている。水は雨が降っていた方の隅へ流れていき、そこには湖があった。底まで澄んでいて綺麗だ。しかしなぜこのベッドには大勢集まっているのだろうか。記念写真なんか撮って…。なるほどこのベッドは観光地なのだ。だからこうして賑わっているのだ。列車は走る。木は風に揺れる。川はせせらぐ。なんだ。物語は勝手に動くじゃないか。そして布団がじわじわと赤く染められていくのが見えた。身体に穴をあけられているらしい。腹全体を貫くような大きな穴を。布団に染みこみきらなくなった赤黒い液体がベッドから部屋に零れる。観光地を改修したいというわけだ。よかろう。目を瞑った。