らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/4/24】

人が認識できるもの、そして表現できるもの全ては人が有している理論の範疇の中に既にある。対象の理解可能性それ自体は所属に問題を与えない。そして、その理論に属さないものについて考えようとするとき、そうするためには考える上で礎となっている理論から外れなければいけないことに気付き、またそれは不可能であることにも同時に気付く。なぜなら人は全ての行為をこの理論上でしか行えず、この理論を前提とする僕たちはここから外れることは決してできない。僕たちは動かせない前提に束縛されている。したがって、理論の形式から外れようとすること自体もまた、ナンセンス、人の対象外である。そしてこの理論が、仮にこの理論が全てではないとして、外部から影響を受けるのだとしても、効果を確認できない以上、この理論に全幅の信頼をとりあえず置くほかない。こんなことはおそらく多くの人が無意識の内に分かっているはずで、この事実でようやく始まりであることも分かっているのだろう。しかし、不安とは足元乃至頭上のどちらかにのみあるもので、ひとまず足元の最も低い部分を確かめただけだ。ただし、この理論がより広範囲にわたる可能性についてはまだ確かめていない。だが、ここにおける範囲がすなわち理解の範囲であることに注意すれば、理解可能性を度外視して理論の存在を認めてやることで脱却できる問題である。理解と認識、このふたつの違いは肝要である。理解できるものとは人が表現できるものであり、認識できるものとは人が世界を通じて知りえるものである。

強い主張とは、例えば苦しみの中にあるときに自分以外の価値観によって自分のそれを塗り替えられないほどに強烈な主張のこと。

僕たちは生きている。そして、これこそが決定的に抗えない前提であるのだ。だからこそ死とは生命の概念の範疇の外に在り、よって死という状態を人が有している理論で扱うことはできない。だけれども、考えてしまうのだ、ナンセンスとはっきり分かっていながらも考えることは避けられないのだ。そしてこれは一体どういうことだろうと考えてみると、生の中にある死と、絶対不可逆である死、両者の決定的な違いを推察することが出来る。つまりは、光の中に局所的に存在している闇と、闇に囲まれることで他の闇との判別ができない闇の違いである。死を考えようとする生きている僕は死という状態について考えようとするのであるが、実際にはその通りではなく、これは分かりやすく表現すれば、生の補集合としての状態を考えていることになるのであるが、このためには生という状態だけでなく既にこの時点で死という状態について完全に理解していなければならない。生きている僕はこの生についてはっきりとした理解を得ることができるが、死の状態についてそれがあるという以上に意味のある結論を得ようとするならば、生きていると同時に死んでいなければ不可能なのである。死があるという事実は、生の補集合としてすでに理論に組み込まれているが、それ以外について我々が死について言及できることは何もないのである。であるならば、僕たちがこの理論の上で問題にしなければいけないのは、生と死の瞬間的な移ろいのことなのである。しかしこの瞬間が理論の中にあるかどうかを確かめるすべはなく、また人が認識できるものであったとしても理解可能性については何も言えないのであるから、表現できるとも言えない。生という状態から死という状態への移行は理論の上では不可逆なものであるために、その瞬間が通常の意味としての瞬間であるとしたら、次の瞬間には理論から抜け出していることになるからである。さらに言うならば、死という状態を理論の上で扱おうとした瞬間に、理論の上では存在できない状態になっており、その状態における別の理論は理論と同居する部分が無いからだ。この理論と死の状態における理論に同居する部分が無いという事実は、その部分があったとすればそこにおいて生の状態のままで死の状態の一部分を解することができるということによる。生はその全てが生によって構成されていなければならず、死もまた全てが死によって構成されていなければならない。

眠たい。

ナンセンスな事象について考えることもまたナンセンスであり、その行為は容易に人を無限に続く暗闇に陥れる。それこそは避けなければいけない。生とは有限であるから。

過度な一般化は破滅を齎す。これまで多くの人間がこの罠に引っかかってきたに違いないのだ。

鯖缶が食べたい。

僕はここにおいてまず大事なことを全く言っていない。

鯖缶はすごい。味噌も醤油も水煮もおいしいし安い。