らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/3/15】

少し前のようにひとつのことをまとめてブログの記事にするだけの余裕と時間が無い。このようにして1日1日で少しずつ書くだけしか今はできない。

待ち時間でソファに座っていた時、心臓が動いていることとか血が流れていることとか、いつかは止まることとかいつだって衰えていることとか、怖くなった。

人間と話したいと思う。何か面白いことが起こるんじゃないかと期待してみる。そう思ってよく知らない人間と話してみたら、落胆する。勝手に期待してみて、勝手に裏切られた気になる。僕は僕のことを教える気はないし、よく知らない人間も自分のことを僕に教える気はない。それは会話ではない。動物の鳴き声と変わらない。話せば安心する人もいる。互いに鳴いているだけでも安心する人もいる。別にその人の何かを知っているわけでもないのに、安心したとしてもひとりであることに変わりはないのに。人間も動物だ、言葉も鳴き声だ。相手がどのような理由でそんな言葉を発しているのかいちいち理解することなんて到底できないし、相手のそれだって鳴き声なのだから理由は実はないのかもしれない。だからこんなことで混迷するのは、言葉というものを僕が勘違いしているからだ。相手の言葉を理解することを諦める、ということではない。そのような消極的なことではない。僕は僕の中の回路でしか相手を捉えることはできない。僕は僕の中で生きてきたのだから、これ以外は知らない。だから、僕の中に相手の正解はあるはずもないのだから、いい加減馬鹿らしい考え方はやめたらどうだ、と自分に提案しているのだ。

このままでいいのだ、と思う。このままでいいはずがない、と思う。これがいいのだ、と思う。自分を好きになるか、嫌いになるのか、それは自分にとって大きな問題ではない。自分にとっての自分、それは自分以外にとっての自分からすれば全くどうでもいいことだ。客観性を持つこと。持てるはずのないそれを探し続けること。自分を嫌いになれば少し手に入る気もする。自分が嫌いで良い。たいしたことじゃない。自分、たしかにそれはいつでも自分だ。しかし変わらないものではない。常に変わり続ける自分、その自分を外から観測しようとする自分。自分の中で回り続けること、空回りし続けること。何かを産むことを求められる社会、強烈な個性が望ましいとされる現代、この流れに反すること。仕事、お金、愛情に意味を求めるのではなく、自分を確認すること。

こんな人間であることを悟られないようにすること。これは大事でっせ。