らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2020/9】副題:おめでとう

多分そのうちブログかくのなんてやめていくと思う。こんなとこで書いても仕方ないし。だんだん涼しくなってきた。涼しい飛び越して寒い。今月は、特に何もせずにいたらなんとなくひと月が経っていた、という感じだった。記憶がない。来月もそうかもしれない。みんな結構適当にやってるんだなぁと思う。厳密なことなんてほとんどなくて、当てのない勘でやっている。それでもみなさんうまくいっていらっしゃるようで、ええ?いいですねえ。頭が痛いし肩も凝るし。僕は、例えば、明日急にインターネットがどこでも繋がらなくなったら、とかを思ってみる。サーバーが全部ぶち壊れて、電波という電波が使えなくなったらちょっと面白いよなぁと思ってみる。別に通信のことじゃなくてもいいんだけど、そういうことがあったら面白いよなぁって思う。あるタイミングで地球上一斉に重力が反転したらやっぱり面白いし、日本語も英語もドイツ語も通じなくなって、それぞれの個人に特有の言語があるだけでお互いに話が通じなくなったら面白い。僕はなんでそういうことが起きないかよくわからないけど、まあみなさんが起きないことを前提にして過ごされているので、多分起きないんでしょう。ああ…。

逆切れという言葉がある。怒られるようなことや間違ったことをしてしまって、そのことを責められている際にイライラした態度をとること。どこが逆なんだろうか。責められたことに腹が立ったから切れるのは、全然逆じゃないと思うのだけれども。責められて嫌な気持ちになったから順接的に切れただけであって、逆というのはおかしい。したがって逆切れではなく順切れである。

僕が言ったことは屁理屈であるという人間は大勢いよう。しかしどうだろう。屁理屈という言葉そのものが屁理屈ではないだろうか。こう言うと、また屁理屈が始まったと思われるかもしれない。ある捉え方を屁理屈だと決めつける、この行為の間にはどのような理屈が存在しているのだろうか。屁理屈という言葉を使う人間は、この行為の狭間にある理屈がどのようであるかという部分を全然意に介さない。つまり、屁理屈という言葉を使ってしまうことで、その対象である捉え方に対して全くのはじめから無視してしまうことを決定する。屁理屈という言葉が使われる場合の大概は、局所的、限定的に見れば理屈が成り立っているというのが僕の思うところである。だから、屁理屈だと言われた方が納得することは有り得ない。屁理屈だと言ってしまったら、言われた方は自分の理屈を否定されたように感じ、今度は相手の理屈を否定しようと考え、粗探しが始まってどんどん不毛になる。

第一、理屈なんてものが不毛なのだ。算数じゃないんだから。理屈なんてあってはたまらない。だから屁理屈という言葉を使ってしまいそうになる状況においては、端から何もかもが屁理屈である。こんな状況の最中で屁理屈という言葉を使っても、ナンセンスに感じられて仕方ないのが理屈というものである。

おめでとうという言葉がある。他人の祝い事に対して使う言葉。結婚や就職といった人生スケールにおいて大きな出来事の成功から、ほかの小さなことまで含めたさまざまなことの成功に対して使われる。しかし、おめでとうと言う人間は、一体出来事のどの部分に対してこの言葉を使っているのだろうか?その成功そのものに対して言っている人間がほとんどである。ぼくはおめでとうという言葉を使うとき、非常に神経質な気分になる。しかし使わない訳にはいかない。おめでとうと言うべき場面で言わない選択肢を取ってしまうことはリスクが伴うからである。他人、特に全くの他人ではなく知人以上の関係性を持つ人間の成功を祝えない人間は疎外されやすくなってしまうからである。おめでとうと言うべき場面ではおめでとうと言っておけばいいのである。これはもちろんおめでとう以外にも当てはまるものではあるが。僕はおめでとうという言葉をその成功そのものに対して使いたくない。形式的な習慣に収まってしまうからである。本来、祝福を表すために使われてきた言葉であるおめでとうが、その成功に対して脈絡もなく反射的に使われていることが僕を神経質にさせるのである。僕もそういう言葉を使ってはいないかと。だが僕もそういうおめでとうを使ってしまっている。だから僕はおめでとうと言いたくない。しかし…。言わないわけにはいかない。言わないにしても、こんなことを説明してしまうわけにはやはりいかない。そんなことをしても哀れみの目で見られるだけだ。哀れみを向けられるのも当然おかしなことだとは思うが。

まあこんなことをここで書くのって時間の無駄でしかないんだけども…。

僕のおかしいところ。例えば応援してる球団があるかと聞かれたとき。適当に、阪神ですねとでも答えとけばいいのに、一応阪神ですけども、こう聞かれたときに阪神だと答えるだけで、特段普段から応援してるわけではないです、話のタネとして阪神とは答えますけども、まあ、それ以上ではないですね、なんてことを付言してしまうこと。

人間が人間を蔑むことの愚かしさ。といって、階級が上の人間が下の人間を蔑むのは自然である。確かに人間は社会的には同一平等でないのであるから、この経済社会の下で暮らしている人間がそういった感情を持つことは普通のことである。しかし、それは愚かしいことである。道徳上の理由とかでなしに、それは愚かしいことである。

例えば一芸能人のファンとかが、その対称人物を過度に持ち上げる、言ってしまえば神格化することはとても気持ちの悪いことだと思う。その逆もそうだ。

もう一回言うが、こんなことをここで書くのって時間の無駄でしかないんだけどもな…。