らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/5/12】

変人、変わっていると言われて喜ぶ人が居る。人から言われて喜ぶだけにとどまらず、変人を自称する人さえいる。このような人はきっと日本人に特に多いのだと思う、これに関しては全く根拠はないが。人は相互的な関係の中で他人に称号を与え、また他人から称号を貰う。その称号の一種がこの変人というわけなのだが、変人の称号を与えられて喜ぶのは全く自意識が健康であることにほかならないと思う。羨ましくさえ思う。変わっているということが何か価値のあることだとでも思っているのだろうか。世間には、変人は何か特別な才能を持っているという風潮が少なからずあるが、これを理由にして変人と呼ばれることを喜んでいるのだろうか、あるいは変わっているということはすなわちマイノリティであることを示しているから単純にその珍しさを喜んでいるのだろうか、希少性から自己を確かめて安心しているのだろうか。そう、称号とは安心である、称号を与えることで他人を安心して認知することができ、称号を与えられることで他人から安心して認知されることができるようになる。しかし称号とは便宜上のものだということを忘れてはならない、安心に浸かりきってはならない、では他人を便宜上のやり方以外で認知する方法などあるのだろうか。名前、これは称号以上に便宜上のものだ、身体、経歴、これも便宜上のものだ、実際に身体を確認しなくても認知はできる、そして経歴は便宜上のものというよりもむしろ他人を便宜的に判断するために作られたものだ。無い、そんな方法など存在しない。僕は、やっぱり、こんな便宜的なものじゃなくてもっと本当に他人を表現している事実で他人を認知したいよ。こんなことを考えている時間じゃ無くなってきた。僕は今モニターを見ながらワイヤレスキーボードを叩いているし、この後には眠る。くだらない疑問はずっとくだらない疑問のままなのだ。変人を自称するのはおそらく形を変えたセルフハンディキャッピングだろう、変人を免罪符として使おうというわけだ。まあもういいか。

集中力が非常に散漫。

強く記憶に刻まれている出来事あるいは瞬間というのは誰にでもあろう。それはその出来事の最中に、この瞬間はずっと憶えているだろうという確信を伴うものであったり、一方で全くそんなこともない場合のものもある。不思議だ。意味のありそうなこともあれば、意味などないに違いないこと、良い出来事ではなく悪い出来事であることもある。不思議だ。