らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/4/26】

お疲れ様って言いたくないけどこんなことでボロ出してられないから言うしかない。

まあやっぱり目上の人間を基本的に見下しているからアドバイスされても、案外良いこと言うじゃん、か、おっどうでもいい説教来たね、のどちらかしか思わない。思うだけなら良いのだけれど、隠すのが下手だから多分察知されているのだろうな。

時間を感じることは容易である。時計を見れば僕たちにとって分かりやすい形で時間を知ることができ、また草木が風に揺れることによってでも知れるし、この生命が刻々と変化していることは最も容易に時間を知る方法である。僕たちが認識できる全ては相対的な存在、実在性に関わらず、である。つまり、例えばあるものがそこに在るということを認識することは無に対する有の認識であり、また実在を伴わないものにしても実際のところ相対性に依存しているのである。そしてこの事実に従うことで、時間とは絶対的ではなく相対的な存在であることが分かる。ただ、これだけでは多少安直な部分が否めないために補足は必要であろう。時間は絶対的な存在であるとすることは、僕たちはこの世界に時間を土台としてその上で生活を行っていることになるが、しかし僕たちが時間を認識する手段について考えれば、それは些か納得のいかない考え方である。時間としての過去及び未来が一体どういったものなのかというと、それはこの今によって決定づけられるものとするのは明白である。時間という認識において、今から見下げたものが過去で、今から見上げたものが未来とされているのである。つまり、時間認識の絶対性はこの今にあるのであり(通常これだけでは弱い絶対性であるが、世界が僕のものであるとすれば絶対性を完全に持ちうる)、であるならばこの時間とは僕にとって、また僕たちにとって相対的なものであるとの確証を得ることになる。ここで、あなたにとって時間が相対的なものであるかどうかについては全く何も言えないことに注意されたい。しかしそれは問題ではない、なぜなら世界は僕であり、また僕こそが世界であるからだ。だが今はこれは関係ない。さて、このようにして時間が相対的な存在であると言える。そして、時間は相対的であるから、この僕の時間とは僕が有機的である限られた時間だけに留まらず、無限の過去と無限の未来に広がっているのである。すなわち、僕は永遠に続くであろう未来のその最後列に居るのでもなく、また最前列にいるのでもなく、あえて時間の流れの中の存在として意識するならば常にその中心に君臨するものとなるのだ。

時間とは個人性の虚しさからの脱却の手法なのである。

そろそろ12時になるので。

これまでの考え方を進歩させればすぐに分かることであるが、僕は絶対的であり、相対的でありもするのだ。そしてこの矛盾を認知することによって絶対的である僕、相対的である僕のどちらにも綻びが生じるのだ。