らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/2/1】

この毎日ってなんだ?自分の無力を確かめているうちに、いつの間にか終わっている一日。一日がこうなら一生もこうなんだろう。そのときが近付いて、いざ振り返った時、どんな気持ちになるんだろう。名前もつけられないような時間を許すことができるのか?どうすればいいんだ。僕はただ正しい方法が知りたいだけ。その方法が実行できるかどうかは問題じゃない。それがあるのならば、知りたいだけなのだ。漫然と過ぎていく日々に呆然とするしかないのか?僕の中の僕は厳然と僕だ。いつだって完全に僕なのだ。不完全じゃない。欠けているんじゃない、ただ空っぽってだけだ。

(僕のことを笑わないでくれ!他人事みたいに見ないでくれ!当事者だろう!僕のくせして僕じゃないふりをしないでくれ!)

毎日毎日、消えてはくれない負債の積み重ねで、いつかはくるであろう返さなければいけないときが怖い。ゴミみたいな人生だ。捨ててしまいたい。でも、この人生が燃えるゴミなのか燃えないゴミなのか、それとも資源ゴミなのか分からないから、どうしようもないから腐るまで捨てずにとっておく。大事なものみたいにとっておく。

真面目っていう言葉は難儀だな。小学生の時、クラスメイトの良いところを書いて発表しあうといった授業があった記憶がある。調子の良いことを言ってクラスを盛り立てる生徒は、『面白い』で、頭の良い生徒は『頭が良い』で、スポーツができる生徒は『運動神経が良い』。これらは分かりやすく、書くほうからしても書きやすい。しかし、誰と仲がいい訳でもなく、勉強もスポーツも取り立ててできるわけではない生徒の良いところを見つけるのはクラスメイト、しかも小学生からしたら難しいものである。困ったあげく、こう書くのだ。『真面目』、と。つまり、『真面目』とは最終手段なのだ。真面目という言葉そのものは良い意味であるはずなのに、こうやって身に着けた使用法によって良いイメージは拭い取られてしまっている。そして、世間に跋扈している、努力など無意味であるかのように振舞う強大な才能に対する憧憬がこのイメージを加速させている。コツコツ頑張る真面目君なんてどうせ才能を持った人間には敵わないんだからやめちゃえばいいのに、そう考え、真面目であることはもはや良いところとすら思えなくなる。では真面目は悪いことなのか?そうであるはずがない。言い換えてみる。真面目、すなわち真摯であることと言い換えてもいいのではないか。真摯であることは人として最も大切なことのひとつだ。しかし、真面目であることがそのまま真摯になるとは限らない。真面目が真摯になるためにはある条件がある。それを少し書く。確かに真面目は才能には敵わない。それでは真面目であることと才能を比べた時、絶対的に才能が優れているのだろうか。才能に恵まれずに真面目でいることしかできず、遠回りとしか思えない道を通らなければいけない時もある。才能は最短距離で辿り着いているのに、まだその半分も進んでおらず、しかも迷い込んでしまって結局辿り着けない時もある。重要なのは始まりと終わりだけではないのだ。この無駄に感じる道中で自分だけのものを見つけようとする、そうしたとき真面目は真摯になり得る。こうして初めて真面目であることが胸を張って良いところと言えるようになるのである。優れていることと劣っていること、それは、憧れることと見下すこととは違うのだ。