らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/1/26】

京都で両刀使いの教頭と共闘したあの日を思い出しながら消灯して眠るのです。

男が女のことを語るときの感情と、女が男のことを語るときの感情は異なっている。男は、女ってなんでこうなんだろう、女はこれだから、とある種の軽蔑を持ちながら女を語る。女は、男ってなんでこうなんだろう、男はこれだから、とある種の嫉妬を持ちながら男を語る。言葉は同じでも、その言葉を誘発させる背景は全く違うものだ。男からすれば女は弱い存在である。肉体的にもそうであるし、男から見た女は動物的には自分の子孫を残すためには確実に必要な存在で、その意味で守るべきものでもあるからだ。したがって、男が女を語る時、必然的に軽んじた立場から語ることになる。女から見た男は、強い存在である。肉体的な耐久性はどうやっても女は男に適わない。精神的には、男より女のほうが強いとよく言われる。妊娠や生理を経験する女は、メンタルの面では男よりも強い、と。科学的なことを抜きにすれば、それは正しいとはあまり思えない。女の強さは、守られる強さだ。つまり、この場合の強さとは、女は男に守られているという担保があるからこその強さなのだ。妊娠という言葉が出てきたが、女にとっても男は子孫を残すためには不可欠な存在ではある。しかし、女の場合は男以上にそれに縛られることになる。女は自身の体内に子供を身ごもらなければならない。女は子供に縛られることを強いられるが、男はそうではない。そのため、女から見た男はずるいのだ。何をするにも優っているように見える男がずるく思えて仕方ないのだ。男と女は平等であるとする現代社会の上ではより複雑だ。雇用において法律の下で女は男と平等ではあるが、男はその縛りが無い。それだけではない。社会のほとんどのものは女ではなく男が作ってきた。この世界は女のものではなく男のためにあるのかもしれない、そう思うようになる。女は男が羨ましい。だが女は女であることを完全に恥じてはおらず、少なからぬ誇りを持っている。なぜなら、何もかものはじまりは女であるという事実があるから。そしてその誇りは、知らず知らずのうちに、男に対するコンプレックスをさらにひねくれたものへと変えてゆく。だから女は男を語る時、男は女がいないと何もできない、というような気持ちを内々に持つことを強制される。そう考えることで男に対するコンプレックスを解消しようとする。いずれにしろ、男と女はある面ではお互いを馬鹿にしながらでないと生きていけないのだ。ただ、それ以外の面では……。

中学時代や高校時代の教師の言葉を人生の格言のように常に胸に留めている人間がいて、彼らは影響を受けた教師を崇敬しているが、彼らが怖い。不安定な時期に影響された言葉など洗脳と言っても良いようなものではないか。なあ、誰かの言葉を信じているのは幸せだなあ。