らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/1/16】

最近は起きるのが遅い。

例えば電車が遅れて待ちぼうけをくらったとき、予想していなかった理由でやることもなくそこで立ち止まるしかなくなった場合。そんなとき、何とはなしに不安になる。自分の時間が無為に過ぎていくことに不安を覚える。でもそこでこう考える。おまえの時間はそれほど貴重なものなのか?それは誰にとって貴重なものなのか?そもそもお前の時間はおまえにとってさえ貴重ではないだろうと。確かにそうだ。そこで何もせずに無意味に過ごさなければいけなくなった時間がそうではないとしても僕はその時間で何もできないはずだ。いやでも僕は信じている。僕は何等かの使命を持ってここにいるのだと信じている。僕だけではなく全ての人間は使命を与えられて生まれるのだとも信じている。でもここには難しい問題がある。生後間もなく死んでしまった赤ん坊にもそのような使命はあるのかどうかだ。自我を芽生えさせる前に死んでしまった赤ん坊がこの人間社会に作用させた使命はあったのだろうか。それはあったのだ。そのような使命とは、人間の社会構造とは全く交わりのないものであり、この社会の上で生きる人間では表現することができないのだ。ああ、分かっている。何もすることができない自分を直視したくがないためにわざとこんなことを考えているということは。そんな使命があるなんてあまりにも人間を特別に扱いすぎている。自分の使命がこれだと感じている人間がいたとしてもその使命は結局は社会構造の上での使命であって生まれてすぐ死ぬ人間はそのような使命を持ちえない。社会構造の上での使命は生きている中で見つけたものであってそれは使命を与えられて生まれたということではなく生き甲斐と言ってもいいようなもので使命を与えられて生まれるかそうでないかなんて分かるはずもなくそしてどっちでもいいことだ。とにかく上手に生活したいのならその社会構造の上での使命をただひとつだけで良いから見つけることでそれだって妥協してもいいもので言ってしまえばなんでもいいし重く考える必要はない、だいたい生き甲斐なんてものはこれまでの経験からでしか見つけることができないものである上に必然ではなくて偶然なのだからこれで良いかどうかなんてわざわざ戻って確かめるようなものでもなくて滑らかに日々が繋がれているのならそれが良くてそうしたら妥協の上に成り立っているそのような日々はもう妥協ではないのだ。