らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【2019/11】

もうあと1ヶ月で今年も終わりということですがなんも言うことはございません。ろくな人生にはならないことが徐々にその輪郭を明らかにしてきているが昔へと少し思いを運ぶだけでその触覚はたしかにきっかけとして存在していたことが分かる。そんなことはすぐに分かる。成長だ何だと抜かしている人種にもそのことを教えてやりたい。つまりは山を登るか下るかを選択して、選択せざるを得ないこともあるが、その通りに進んでいきある程度の時間が経過して背後を振り返れば登ってきた道と下ってきた道が見えるかどうかの違いだけであり選択の際に既に分かり切っていたことであるのだ。東京に行ったとき大手町の丸の内線改札付近で電車には普段あまり乗らないであろうおばはんがスラっとしたOLに話しかけて東西線はどうやったら乗れますかと聞いていたがOLの方は華麗にその言葉を避けて視線すら動かさずにヒールの上手に履いて出口へと歩いて行ったのを見て少し嫌な気持ちになる。すぐに人が見つかりおばはんはきっと東西線まで歩いて行ってこんなに距離があるんだと思ったのだろう。同じ電車に乗り合わせた人間のこれまでを想像することに意味があるだろうかと考える。隣に座った人間のスマホの発光が目に入る。前に立っている人間の腰元を見つめる。鞄を持つその左手薬指に指輪を見つける。それを見るそれを見るそれを見る。悪意はないのだとそれだけは理解されたい。僕に特定の対象への悪意はない。階段を上る時にふと思った疑問なのであるが高さがあるヒールを履いている女は階段を上る時そのヒール部分を階段に乗せて登るのだろうかそれとも乗せずにかかとは宙に浮かして登るのだろうか。無論どちらでもよいのだが。こちらが考えていることを悟るようにじっと何秒か見つめてくる人間が苦手で磊落な振りして頷く真似をする人間。教育が行き届いてよろしいじゃあありませんか本当は腹が立ってしょうがないんじゃあありませんか。電車で端の座席が空いたらすかさず今座っている席から移る人は縄張り争いしている動物みたいで見かけると笑いそうになる。これは女に多い。椅子に座って机の上で肘をついて頭を乗せて目を瞑ってどうしようもなく何も起こらない。灯油を使うストーブは灯油が切れても電源自体は一瞬入る。それとおんなじ。その一瞬で色々やってると言えるかもしれないしそれもどっちでもいい。どっちでもいいことが多すぎてずっと眠っていたい。