らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【CD感想】90125 / Yes

このアルバムは佳曲揃いといった印象で飽きることなく聴けます.聴けますが,やはりYesのポップな曲な音がチカチカします.飽きることなく聴けはしますが,長く聴けるものではないと僕は思いました.エレクトリカルで都会風味もあるポップロックとの感想を持ちました.


1.Owner of A Lonely Heart ★★★☆☆


2.Hold On ★★★★☆


3.It Can Happen ★★★★☆


4.Changes ★★★☆☆


5.Cinema ★★★★☆


6.Leave It ★★★★☆

間奏のサウンドがこの上なく爽快.


7.Our Song ★★★★★

爽やかな疾走感でグッド.


8.City Of Love ★★★★☆


9.Hearts ★★★★★

ゆっくり終盤の展開に進んでいくのが気持ちいいです.


90125

90125

  • アーティスト:Yes
  • 発売日: 2004/02/23
  • メディア: CD


【詩】阿呆ども

こんにちは。こんにちはだと! こんにちは、とは一体どういう意味で言ったんだ? どういう考えを持ってそんなことを口にしたんだ? こんにちはになんの意義があるんだ? 例えば休日の昼過ぎに外に出てみたとしよう。どこかに出かけるために。そうすると隣の家のおばさんも同じように外に出るところで、ふたりはかちあった。隣といっても別段深く関わっているわけではないが仲が悪いというのでもなかった。おばさんはよく慣れた愛想笑いを顔面の至るところに浮かべて、こんにちはと言った。最後のはをゆったりと伸ばすようにして言った。何がこんにちはだ! なんのために言ったんだ! 形式的なこんにちは、形式的な愛想笑い、こいつらはなんの理由があるんだ。僕は気に入らない、気に入らないんだ。こんにちはだと、なぜこんにちはと言ったんだ。僕はこれをいちいち追及してやる用意がある。こんにちはと言ったやつら全員問い詰めて問い詰めてやる。誰も僕を納得させるだけの返事はできないに違いないだろう。こいつらは阿呆だ。阿呆だ、くだらない阿呆だ。僕は今、問い詰めてやると書いた。しかし本当に僕がそんなことをするだろうか。そんな馬鹿げた行為に出ることができるだろうか。いや、僕だってこんなことはしないに違いない。用意があると言いながらしないのである。僕はこういう性質なのである。このことについても僕はやはり問い詰めてやらなければいけない。だから僕は問い詰めてやらなければいけないことばかりになっている。本当にそうか? 問い詰めることは本当にしなければならないことになるのか? それはなぜそうなんだ? 問い詰めてどうするんだ。そんなことしても形式的なこんにちはと何も変わらないことはやってみるまでもなく分りきっていることじゃないか。ああ、僕は問い詰めなければいけないと考える一方でその必要は全然ないとも考えている。僕はどっちなんだ、僕はどちら側に立っているんだ。それとも僕に立場なんてものはないのか、どうなんだ。やめよう! こんなことを考えるのはやめよう。こんなことを考えても仕方ないじゃないか。仕方ない? 何が? しかし今はひとまずこの点は切り上げよう。(ひとまずとはなんだ? まるでそのうち考えてみるつもりで、しかも考えてやれば分るだろうと思っているふうではあるまいか? 自分に正直になれば、考えてみるつもりなどはじめからさらさらなかったことなど明白じゃないか。こんにちはになんの意味があるんだなどと書きはじめた時点でそうだったじゃないか。僕は考えてみるつもりなどなかった、だけども僕は考えなければいけないとも思っているし、思っていたのだ。これは撞着なのだろうか、僕はそれも分らない。だがそれもまた僕は考えなければいけないと思っている…。)ひとまず。ひとまずである。これを書いている今において差し当り重要なのは、僕がここで何を書こうとしているかという点ひとつになるだろう。(僕は少しも重要だとは思っていない。)僕はここで阿呆どもがどんなに阿呆であるかを書き連ねてやろうと思う。もっとも、はじめに言ってしまうとそれは誰も彼も全員について書くことになるだろう。なぜか? それは簡単なことじゃないか、誰もが阿呆で低劣であるからだ。僕は阿呆どもが気に入らない! だから書いてやるのだ。気に入らないから書く? 僕はこれらの繋がりをよく理解していないが、とにかく書くのである。それにもう書きはじめてしまった。もちろんすぐに書くのをやめてもいいわけではあるが。いや、そもそも書くとか書かないとかどうでもいいことだろう! (そうなのだろうか、僕は確証を持てていない、それにどうでもいいことってなんだ? どうでもいいことを少しでも考えたのはなぜだ? 僕はまたこんなことを考えだしている。どうせすぐに放り出してしまうはずなのに。ああ、そんなことはどうでもいい。)僕は気に入らないのだ。気に入らないことがどういうことなのか考えてもよいが、しかし僕はこの事実を基礎におこう。無理矢理基礎にしてしまってその下にある部分については一切考えないのである。そうしないと僕はこれから書くことのとっかかりがひとつも掴めないからである。そうだろう。だから、仕方ないじゃないか。こうするほかないのだ。(またはじまった。お得意の言い訳の御高説である。仕方ないと言うときのにやついた露悪的な笑みが気持ち悪い。だが僕はこの言い訳が僕自身をある程度納得させうるものだとも思っているし、たしかに仕方ないと思う。しかしそれはまあ言うなれば言葉の綾みたいなもので、仕方ないはずはないとほとんど確信している。だが今はこの言い訳を認めてやってもよかろうものではないか? 僕自身、何が書かれるかに全く興味がないわけでもないし、さらに言うと仕方ないかどうかなんて子供じみた問題に付き合ってやれるほど僕は暇ではないのだ。僕は低級な問題にかかずらうほど時間を持て余していないし、もっと高尚な問題が山積していてこちらに集中しなければならないから。僕はつまらない問題をいじくりまわしている僕とは違って忙しいのだ…。それが分るだろうか? 分るかどうかもやはりどうでもいいことであるのは僕もよく承知しているところだ。したがって僕はもう書くのをよそう。気に入らないから書くなどと叫いているのは滑稽だし、何より馬鹿げている。だから、書くのをやめるというのは賢明な判断に間違いないのである。僕はここで括弧を閉じよう。と言って閉じた後もまた書くだろうことも間違いない。)さて、僕は基礎をつくった。これでもうこれより下のことは考えなくていいことになった。であるならば僕は早速書きはじめなければいけないのだが、それより前にまず僕が今どのようにこれを書いているかを少し書いておこう。なぜというに、その方がなんとなく雰囲気が出るように思うからである。僕はとんだ形式主義者なのである。(ここで再び注釈を入れたくはなるのだが、控えていよう。どんな注釈を入れたとしても結局同じようなことしか言わないのだし、また言えないからである。僕は同じことを二度とは言いたくない。それに僕自身飽き飽きしているのである。いちいち口をはさむのが実際もう面倒になってきている。)

僕は書いているのだから一応は紙に向っている。安物の机の上に紙を置き、へたれた椅子に座って鉛筆を持っている。そうして僕がいるこの部屋はもちろん僕のものではなく、毎月家賃を払って形式上僕の部屋ということになっているだけの代物である。この部屋で僕とそれ以外を隔てているのはドア一枚である。あるいは隣人との場合では壁一枚ということにもなる。しかし僕は、この隔たりに意味があるとは考えられない。世の人はこの隔たりで十分なように感じているらしいが、僕は全然そうは思っておらず、それこをただの形式的なへだたりとしか思っていない。ドアや壁一枚では何もないのと同じではないか? 個人に部屋が割り当てられているからといってそれが僕たちの間に区切りをつけていることになるはずがないじゃないか? 僕はこの部屋で、いつなんどきドアや壁がぶち破られるか分らない恐怖とともに暮らしている。だから僕は生まれてこの方、真の意味でひとりになったことなど一度もないと断言できる。しかし隣人なんぞは、ひとりで暮らしていると胸を張って公言しているのだろう。阿呆なのだから。僕の部屋にはこの忌まわしき隣人の声や生活音、はたまた堕落や苛立ちといった感情なんかも入りこんでいるというのに。ああ、ひとりになれたらなあ! ひとりになれたんならもっとましな考えも持てただろうになあ! こんな騒騒しい部屋の中で書くものなんてくずも同然じゃないか、やっぱり書くのはやめてしまおう! そうだ、そうだ。やめちまおう。それでこの部屋でおとなしく暮らしていけばいいじゃないか。…。またぞろこれか! そんなことはどうでもいい! 僕は気に入らない、気に入らないんだ! 僕の書くものがくずであることがなんだ! にっくき阿呆どもを見てみろよ! くずよりずっと劣ったことしかしちゃいないのに勿体らしい名前をつけて、自分たちがすることには大義があるなどと勘違いして喜んでやがる! その点、僕は僕が書くものがくずであると正当に評価できているじゃないか。だから、僕が書くものがくずだということは書くのをやめるための理由にはならない。やめるなんて絶対了承してやらないぞ。僕は書く。僕は僕に書いてもらうまで気が済まないだろう…。そしてこれを書いたら僕はもう阿呆どもとはおさらばだ。もう金輪際関りを持たないでやる。これを書くというのも阿呆どもの阿呆さ加減を最後にひとめ見てやろうという魂胆がそもそもあったんだから。さあ、そろそろ書こうか? 別に急ぐことでもないが、あまりゆっくりしていいこともないだろう。それに、例の注釈がまた現れるとも知れない。では何から書こう? まあ、どこのどいつからはじめてもまるっきり同じなのだが…。どうせ誰についても書くことになるし…。

多分、はじめに書くのは一番簡単なものにするのがいいと思う。いや、別に構成上の理由とかではない。一応書いておこうと思うが、僕はこれを一定の形にまとめようとはこれっぽっちも考えていないのだ。僕は気に入らないからこれを書いているのであって、そういう動機で書いている僕が文章の構成とか表現の良し悪しを気にするのはとんだお笑い種じゃないか? それに僕は文章のどうのこうのや表現のどうのこうのも気に入らないんだから…。簡単なものから書きはじめるのは単純に僕が書きやすいからだ。無論、書きやすいかどうかは書いてみるまで分るはずがないのだが、何かをはじめるときにはまず最も初級のものからやりなさいとの教育を受けさせられてきたんだからこうするのが無難だろうと考えるのである。慣れないことをして気に入らない連中をひとつでも書かないことがあったとすれば、それこそ気に入らない。では一番簡単なものとはなんだ? おそらくやはり具体例を挙げるのがいいだろう。これから上げる具体例はひとつかふたつに留まろうが、この種の阿呆は数え切れないほどいる。こういうやつを見たことがある。そいつは所謂大企業に勤めていて、それが自慢のひとつであるらしかった。もうこの時点で阿呆が極まっているのだが、そう話を簡潔にすることもなかろう。勤めていることそのものも社会的地位云云で自慢なようだったが、それより誇っていそうだったのは給与のこと、それによって満たされている生活のことだった。そいつは建設されて間もない新しくて綺麗なマンションに住んでいることが気持ちよくて仕方ないらしく、わざわざ部屋の写真を見せてきた。もちろんこれだけに満足しているのではなかった。そのマンションで一緒に暮らしている結婚相手とうまくいっていることもまた嬉しいようだった。そいつは自分のことを、ある大企業に勤めていて日々に満足している自分、とでも考えていそうだったが、僕にとってはただの阿呆だった。僕の方の見方が正しいのは言うまでもないことである。だが、この具体例だと誤解される恐れがあるので少しつけ加えておこう。いや、別に、誤解されたとしても一向に構わないのではあるが、つけ加えないままでは僕が気に入らないからつけ加えるのである。それに誤解しないものが一体どこにいよう? 誤解するのが阿呆である。僕は気に入らないから書いていて、気に入らないからつけ加えるだけなのだ。誤解がどうとか持ち出すことになんの意味もない。僕が是非ともつけ加えたいのは、僕はそいつの自慢が故にそいつを阿呆だと言っているのではないことである。大企業様に勤めている御仁であっても謙虚かつ質素に暮らしているやつがいるのは僕もよくよく承知しているし、そもそも給料のいいところに勤めているからといってそれが満たされることに等しいわけではない。僕がそいつのことを阿呆だと書いたのはそいつが阿呆だからなのである。そいつが自慢好きかそうでないかなんてのはそいつが阿呆であることに関係ない。そいつは端から阿呆の生まれなのだから阿呆と書いたまでである。それにまだつけ加えるのだが、たとえ別の例を挙げてそのやつが謙虚だったとしてもそれはそれでそのやつは阿呆なのである。当然じゃないか。阿呆なんだから。僕ははじめに書いたはずである。一番簡単なものからはじめよう、と。だから今のように、自慢好きなやつの例を持ってきただけである。そしてこれもまた是非ともつけ加えておきたいことなのであるが、僕がそいつのことを阿呆だと書いたのは嫉妬とか羨望とかによるものではないのである。僕はもちろん誰がどんなに豪勢な暮らしをしていようがどうでもいいし、別段憧れたりもしない。僕がなぜ阿呆を羨まなければいけないだろうか? 僕がそいつを気に入らないのはそいつが阿呆だからで、妬ましいとか羨ましいからでは決してない。僕は裕福じゃないやつらも気に入らないのである。この現代社会においてお金はないよりあった方がずっといいもので、あった方がいいものを持っていないのも阿呆じゃないか。だからもう一度繰り返すが、僕が気に入らないのは阿呆だからで、それ以外の何物にもよらない。そして僕は次に男女の交際のことについて書こうと思っているが、これも嫉妬からではない。たしかに僕は二十五歳にもなって女と付き合ったことはないし、これまでほとんど女と会話らしい会話をしたこともない。だが断じて書いておきたいのは、そいつらが羨ましいから気に入らないのではないということである! ただ単に男女交際などしているやつらが阿呆だから気に入らないのである。それだけである…。

それにしても、僕はここでひとつ思うところがある。それについてを男女交際連などの前に少し書くことにしよう。それは、ほとんどの人間は他人の幸福が憎くてたまらないに違いないということである。僕はこのことを確信している。そして他人の不幸が何より喜ばしいであろうことも知っている。世の人は多分こう言うだろう。それはあまりにも極端すぎやしないかしら、たしかに私だって自分の嫌いな人が不幸に見舞われたときなんかは一瞬でも喜びを感じないことは否定できませんけれども、それでも私は、私の仲の良い友人の幸福を一緒になって喜ぶことができますし、また不幸を同じように、ええ、全く同じようにとはいきませんものの悲しむことができます。一流の阿呆の言い分である。こういった考え全てを即座に無意味だと決めつけはしない。だがこれは実のところかなり表面的で、言うなれば教育の賜物なのである。僕たちは教育によって他人の幸福をどう考えればよいかを教えこまれる。特定の科目があるわけではないのは、まあ誰でも知っているだろうが、倫理観だとか道徳教育を通じてだったり集団行動を通じてだったり、とにかくどこかで教えられているのである。だから、一流の阿呆の言い分だと書いた考え方は教育をしっかり受けてきたひとつの証なのであって、それほど悪いものだと決めつけてやらなくてもよかろうものなのである。しかし良いものではないのだが…。いずれにしてもやはりそれは表層的なものであることには違いなく、他人の幸福への憎悪や他人の不幸への喜びを教育によって塗り重ねられた部分の第一面しか見られていないことになるだろう。もっとも教育とはそもそもが表層的なものであるかもしれないが。だがどうだろう、その一番上の面を剥がしてみたら? 道徳でつくられた薄い層をひと思いにべりべりと剥がしてみたら? 教育を教育通りに受けてきたものからすれば見るに堪えないものがあるだろう。憎悪、憎悪…、憎悪の間にある喜びは全て他人の不幸への喜びである。これが他人に対する感情の全てである。(いやはや、僕はこのことに自力で気が付いてから少しの間は、誰かが幸せなようにいると精一杯憎んでやったし、誰も彼もの不幸を本気で祈願したりもした。しかし阿呆どものどうこうは僕にはどうでもいいことだった。それに僕というものは、精一杯だとか本気だとかが全くできないのだからやっても仕方のないことでもあった。まあ、そういう性質は自分自身もとより知っていることではあったが、憎んだりしてやれば少しは愉快になれるかもしれないと思ってやったのである。愉快にはなったがそれは表層的な愉快だった。だから僕は少しの間しか憎悪しなかったし、不幸を喜んだりもしなかった。)要するに、大勢の人間の第一義的な欲求は、他人の幸福への憎悪、あるいはそれに同伴する他人の不幸を希望する気持ち、これなのである。みんな他人が恨めしいに決っているのである。こういう考えが一般世間様の定説でないことは知っているとも。どちらかと言えば敬遠されるような考えであることだって分っているとも。それにこの考えには今から書くような反論があるだろう。(反論があるだろう、とは言うものの、僕がこれから書く反論とやらはもちろん僕が自分で考えたのであるから、言葉通り反論とはきちんと呼べないものである。この反論まで含めて、いや、この反論に対する回答まで含めて僕の考えということになる。まあ、つまり、次に書く反論は僕自身がきっぱりと答えを差し出すことのできる反論ということ、さらにはその反論を選んだのがやはり僕自身だという点で作為的極まりないものなのである。だがここで明確にしておきたいのは、僕はどのような反論があったとしてもこの考えを破棄することはないだろうということである。実際にこの考えを世間様に発表するとさまざまな反発があるだろうし、その中には僕が全然考えてもみなかった反論があるだろう。たしかにそれは僕の考えに打撃を与えると思う。こちらの方が間違っているのかもしれないと狼狽えることにもなると思う。そういった反撃を受けてもなお全く考えを変えないとも言いきれない。少しは考えを変えるかもしれないが、その変化はあってもなくてもどっちでもいい類の変化にはなるだろう。世間様に煙たがられない程度に形を変えるようなことはあっても、肝心の中身は変わらないだろうと思われる。しかし世間様にとって大事なのは形だけであるから、それで反撃の目的は達せられたことになるわけだ。だから僕にとって世間様からの反論はなんの意味も持たない。したがって僕はこの考えを発表しなくていいことになるし、この考えが作為的であるという点に関しても問題にはならない。わざわざ世間様の意見を阿って無為なことをする理由などないだろう。いや、そうとも言えないし、そもそもとして何かをするのに理由が必要になるわけではないかもしれないが…。)あなたの考えはやはり間違っていますわ、なぜと言いますに、他人への憎悪が最も強い欲求だとすればこの社会は今とはかけ離れた姿になっていたでしょうから。憎悪が一番強いのなら、なぜ誰もが憎みあう社会になっていないんですの? 分りきったことですけども、私たちの社会は共同体をつくってお互いに助けあう、そうやって発展をしてきたでしょう。ええ、助けあいばかりではありませんでした、ときにはあなたの言われる憎悪が時代の前面に出てくることもありましたが、全体としてはやはり私たちは助けあってここまできたのです。ですから、あなたの考えには致命的な矛盾があると思われますわ。ふむ、たしかに筋のよく通った反論だと思う。で、僕は今からこの反論に対して返答をするのだが、そのためにはもうひとつ書かないといけないことがある。それは、憎悪という第一義の欲求の下にある第二義的な欲求のことである。人間は、そうとも、個人で生きているんだからやはり自分のことにも大いに関心を持っている。この自分に関することが第二義的な欲求ということになる。すなわち、自らも幸福によって満たされたいという欲求である。ところでほかの動物の場合を考えれば、むしろこの第二義的な欲求の方が第一義的であるのが自然であるように思われるが、そうでないのは人間の社会性が個人性を既に上回っているためである。それはともかく、僕は反論に返答しなければならない。なぜ全ての人が憎みあう社会になっていないか? これはある種の妥協によるものである。どういう妥協かというと…。それを書こう。この人間社会で最も幅を利かせているのが他人への恨めしさであることはよくよく書いた通りである。これをただ自由にのさばらせているだけにすると、たしかに社会は崩壊状態になるだろう。笑っているやつがいると忽ちのうちにそれこそぼこぼこにされてしまうだろう。だが、ここで第二義の欲求が役割を果たすことになる。笑っているやつをぼこぼこにしたいのである、したいのであるが、その一方で自分としても気持ちよく愉悦に浸かっていたい思いもある。その思いは無視できないほどには大きく、簡単には抑えられない、どうしたものか…。そこで人間は思いついた、このどうにも抗いがたい欲求を組み合わせる形で社会を構成することを。第一義的な欲求に頭を下げたわけである。こういったふうに…。いえね、わたくしどもとしましても当然他人の幸福が恨めしくて仕方ないし、機会さえあればすぐに全部奪ってやるつもりではあるんですが、そうすると自分自身が幸福になろうにもなれなくなってしまうわけです、だって幸福になんかなってしまったらほかのやつに目をつけられて嬲りものにされるんですから、そんなら幸福になろうなんて考えなければいいというのはおっしゃる通り、おっしゃる通りなんですがしかしわたくしどもは幸福になりたくて実際たまらないのです、ですからこうやって請願しにきている次第なんです、幸福になりたいという欲求を通じてわたくしどもはあなたの強大さがよく分りました、自分が幸福になりたいという思いがまず第一にあってそこから他人の幸福を恨めしく思うように派生していくのではないということをです、わたくしどもは何よりも他人を憎みたいです、こうやって憎悪に支配されています、しかしどうでしょうか、わたくしどもを支配している憎悪のほんの一部をわたくしどもが逆に支配するというのは、お望みであればいつでも支配権をとり返してくださって構いません、どうでしょうか、わたくしどもの全てを治めるというのはそれなりに骨の折れることでしょうからここいらで新しい手法を導入するのも悪くはないのではないのですか、何卒、何卒。そして我らが欲求はこれを了承した。その第二義的な欲求なしでは衰退するようにも思ったからだった。こうして大手を振って幸福になれるようになった後にすべきであったのはその安定化であった。そこで教育である。教育を通して、他人の幸福を阻害することが道徳上最も悪いことのひとつであると社会構造の深部に組みこんだ。以上が、まあ僕の返答ということだ。しかしこう書いてしまうと、次のような疑問はひとつの方向としてあながち突飛なものではないだろう。よく分りました、でも、そうであることを一応ここでは認めるにしましても、それが一体なんなのでしょうか、私たちが憎悪を教育によって重ね隠すことに成功しているとしても、結局のところ私たちは憎悪を第一義として毎日暮らしているのではありませんし、そんなことを意識すらしていません、あなたは何を言いたいのでしょうか、あなたは何を主張したいのでしょうか、こう言っては良くないかもしれませんけれども、あなたの考えは、ひねくれもの、ええ、ひねくれものの考えにほかならないと思いますわ。なんという反論だろう。(これだってもちろん僕が自分で考えたものだ。しかし…。僕はこの反論にほとんど呆れてしまっている。)僕はただ事実を書いただけで、それ以外には何もない。それなのに主張だなんて言われる理由はひとつもないじゃないか? 事実だけがどんな場合にも意味を持つのである。そして、その事実が覆われて見えなくなってしまったとしてもやはりそれはどうしても事実なのである。なのに主張だなんて…。それに僕がひねくれものだって! いや、そのうち書いてやろうと思っていた職場の連中のことを思い出した。こいつらも僕のことをひねくれものだとか呼んでいやがった…。しかしこいつらのことを今書くのはよしておこう。こいつらは特に気に入らないからここに書くのはもったいないだろう。僕だってそれくらいの思慮はあるんだから。(そしてこの反論と回答の繰り返しもここらで書くのをやめることにしよう。だいいち、どっちも僕が書いているんだから反論にも回答にもなっていない。何よりこれ以上続けても、あとは僕の悪口が飛び交うだけだろうし、ひねくれものの次には気取り屋の天邪鬼とか、その次には低知能故の神経質とか…。無論、僕はこうしたことにはきっぱりと返答できるが、それでもなお反論してくるだろう。僕が書いているんだから。だからもう打ち切ろうと思うのだ。そんなことは頭の中でやってればいいのだ…。)

さて、ここで僕は教育という単語に契機を持ち、ついでに教師について書いておこう。だいたいこの教師というやつは、全部が「ついで」で済むようなものだし。教師とは自信過剰家の言い換えであるが、何を教えているかといえば全て表面的なものである。いや、それでなんの問題もない。人間が構成してきた社会は表面的で、どれほど大層な物言いをしようがこの社会は進歩を経験したことがない。解釈の仕方をとっかえひっかえしてきたのみである。なんの問題もないが、僕は気に入らない。教師たちは自分が教えていることには大きな意義があると考えているし、その考えのなかに疑いをはさむことを露聊かも知らずに満足している。そうである、教師たちは満足しているのである。自分が教師であること、その自分から発される教え、どちらにも満足しきっている。まあ、満足しているとはいっても、教師には教師流の懊悩はそりゃあるんだろうが、しかしそれも最後には満足に変換されるものである。満足したやつというのは苦悩をも満足の材料にしているんだから。当然、それとは知らないままに苦悩しているのではあるが…。僕は教師が教師としての人生を過ごし、それをさも嬉しそうにしているのはお笑いだと思うし、そして気に入らない。(自らの職業に満足し、そのことを自慢のように考えている連中がいるが、僕はその連中と会話をしたりするとひどく混乱してくる。そういったときの僕は、目の前に立っている人間が生き物という区別を超えて単純に職業という形式的なものにしか見えなくなる。また、その人間もそういったことは了承しているようだし、自分が形式的な姿態に変現していることにも満足しているようである。職業は彼らにとって自慢だからである。彼らは満足しているときは本気で満足していて、悩むときには本気で悩む。満足という形式、苦悩という形式、職業という形式。彼らは形式をありがたがる。形式になればそれでもう安全、あとは形式通りにどんぶらこどんぶらこといった具合。いや、しかし僕もまた一個の形式であることには違いない。形式でないものなど存在しない。存在しないのだから、形式的でないものを問うことは考えはじめたら最後、きりがないものになるだろう。きりがないということがそれをしないことの確かな理由にならないことはそうではあるが。僕は形式を除外した存在などという空想はしない。そんなものがあってはたまらないとさえ思う。存在がすなわち形式なのであり、そんな存在があれば形式はたちまちに霧散してしまうだろう。そうなれば僕は…。耐えられない! 僕だって僕自身が形式であることをありがたいと思っているのだ。本当にありがたいと…。だが僕は誰かさんたちとは違って、満足の形式に満足することができないし、苦悩の形式に苦悩することもできない、それに職業形式、より一般には社会構造上における役割の形式にも一切馴染むことができていない。はたしてそのような形式がなんなのだろうか。僕にとって形式がなんなのだろうか。しかし僕は形式を脱ぎ去ることができない。そんなことしたくもない。そもそも可能なことではない、僕は存在であるから。僕ははじめから終りまで形式であることに違いはないが、なんとなくそれを持て余している。形式であるのに形式であることをどうにも感じられずにいるままである。そしてその一方で、僕は存在になりきっているというのでもない。僕は形式であり、存在である、これは事実である、捻じ曲げようたってそうはいかない事実である、僕はこれらを混同してしまって、形式に対しては存在を装っているように、存在に対しては形式を装っているように振舞う。僕は形式と存在の境界で、どちらにも凭れかかることはせずに支えなしで立っている。それは僕の独立心ではなく、依存心によるものである。よりかかることができない僕は段段立ち眩みがしてきて、ときどき空けた眼差しをして形式の向うを望遠している。そうである、僕はまるで貧血症のように立ちつづけていて、座ろうとはしない。いや、僕のこの状態は僕が現代社会の一員だからというのではない。現代社会はひどく形式ばっているくせに形式を無視した存在を説いてくることの影響ではない。いや…。そんなことがありえるだろうか。社会の影響を全く受けない存在など考えられるだろうか。ありえないだろう。だから僕の状態は現代社会によるものである。気に入らない。僕のこの考えが阿呆あってのものだということが気に入らない。これは僕が何よりもどんなことよりも気に入らないことだと言っていいだろう。しかし、これは事実である…。僕はこの現代社会にあって、形式と存在の境界線の上にいる。そしてこういう僕が望んでいる

【曲感想】ほんとのほんと / BUMP OF CHICKEN

ほんとのほんと ★★★☆☆

『firefly』のカップリングです。シンプルな構成です。個人的には歌詞もメロディも可もなく不可もなしといった感じです。この曲以降カップリングは出されていません。

firefly

firefly

【2020/7】副題:新喜劇

腰が痛い。やっぱり夏は暑くないといかん。涼しいほうがいいとかそもそも意味不明。あの炎天下のジリジリした感覚、最高である。将来への不安。

僕はまだ生きていくだろうし、その中でさまざまな気持ちに遭遇することになるだろうと思う。しかし、そのどれもが衰退であるように思う。だけども、僕はまだ生きていくだろうと思う。

しかし、この現代日本に生まれ、この時代を生きていて毎日を飽き飽きしながら自分の気持ちにも心もとなくなっている僕のことを想像できるものがいるだろうか?

こういうことをしたらダメですよ、ああいうことをしたらダメですよという情報が誰の耳にも多く入るようになって、全ての方面に当たり障りのないやつが出てきている。そりゃ誰でも好き勝手してくれて構いませんけどもね。それで道徳気取られてもね、こちらとしてもね、困っちゃうんですね。育ちがええんですねえって言って欲しいんならなんぼでも言いますがな、そりゃもう何回でも。バランスうまくとってるつまりなのかもしれんけどもね、いやそれいっこも動いてないわけだからね。動かずに真ん中で止まってたらシーソーのバランスとるまでもありません。小賢しいわ。

最近よしもと新喜劇を久しぶりにネットで見た。やっぱり面白い。しかし今改めて見てみるとその笑いのほとんど全てが差別や暴力まがいのことで構成されている。身長、顔貌の美醜、障害者、棒ではたく、うるさい大声など。おそらく大阪でも上品な層は見ないと思われる。ストーリーでもヤクザが当然のように出てくる。今も同じようにやっているのだろうか。外野がうるさいだろうこのご時世に変わらずにやっていたらそれはそれですごい。特に茂造の回は叩くなどの暴力がほかの回に比べてより目立つ。でも茂造の回が一番好きだった。茂造回は終わりが尻すぼみにならないのがいい。こうやって差別の問題が大きくなっていることを知ってから見てもやはり面白い。

【CD感想】Weather Diaries / Ride

僕の好みですが、このアルバム、特に中盤までがRideの最高傑作と言っていいと思います。1stよりも耽美かつ曖昧に空間的な広がりを持った澄明なサウンドで、『Wheather Diaries』のアウトロにおける幻想的な音の伸縮はこのアルバムの頂点として極まっています。初めて聴いたときには1曲目からグッと引き込まれました。『Wheather Diaries』までの流れが突出して綺麗です。ですが、曲そのものはいいものの曲順があまり整理されていないように思えます。10曲目あたりが無かったら後半も前半と同じように聴けた感じがしました。『Lannoy Point』と『Wheather Diaries』はRideの中でも5本指には入る屈指の良曲です。


1.Lannoy Point ★★★★★

ingを多用して歌詞の面でも畳みかけてきます。重ねられたボーカルにギターがかっこいい。


2.Charm Assault ★★★★★


3.All I Want ★★★☆☆


4.Home Is a Feeling ★★★★☆


5.Weather Diaries ★★★★★


6.Rocket Silver Symphony ★★★★☆


7.Lateral Alice ★★★★★

この曲は前曲からの変化も含めて良曲です。


8.Cali ★★★★☆


9.Integration Tape ★★★★☆


10.Impermanence ★★★☆☆


11.White Sands ★★★★☆


Weather Diaries

Weather Diaries

  • アーティスト:Ride
  • 発売日: 2017/06/16
  • メディア: CD


【CD感想】ヒバリのこころ / スピッツ

インディーズのころのアルバムで、現在では入手困難になっています。このアルバムだけでしか聴けないのは『353号線のうた』と『死にもの狂いのカゲロウを見ていた』の2曲だけですが、『ヒバリのこころ』と『恋のうた』もそれぞれ少々の歌詞とアレンジの違いがあります。『353号線のうた』と『死にもの狂いのカゲロウを見ていた』の2曲どちらとも、スピッツのほかの曲とは雰囲気が異なるものという印象を受けます。僕はたまたまレンタルで聴けたのですが、この2曲のためにどうしても聴いた方がいいというアルバムでもない気がします。


1.ヒバリのこころ ★★★★☆

『みんな元に戻っていく』のみんながすぐにと変わっています。あと、少しコーラスがありますね。マサムネさん、今と比べると初期の頃は一文字一文字区切ったような歌い方をしています。


2.トゲトゲの木 ★★★★★

『花鳥風月』と同じだと思われます。


3.353号線のうた ★★★★☆

変に快活なコーラスがあってリズミカルな歌い方なのに、なんとなく奇妙な歌詞でポップなんだかなんなのかよくわからない曲です。


4.恋のうた ★★★★★

『名前をつけてやる』バージョンとの違いは結構分りやすいです。


5.おっぱい ★★★★★

『花鳥風月』とほとんど同じだと思われます。


6.死にもの狂いのカゲロウを見ていた ★★★★☆

最後のゆっくりゆっくり盛り上がっていってこと切れるような終わり方はほかの曲にはないようなものです。