らうんどあばうと

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【恋愛を斬る!連載第一回】恋愛、王道と覇道

はじめましての方ははじめまして。そうでない方もはじめまして。恋愛コーディネーターの豊福と申します。今回は、「カッコイイ」、「カワイイ」について考えていきたいと思います。

まず、何も言わずに次の画像を見てください。 f:id:sate-pote:20181109120123j:plain f:id:sate-pote:20181109120011j:plain f:id:sate-pote:20181109120006j:plain

カッコイイ、ですね。

何も言わないままで次の画像も見てください。 f:id:sate-pote:20181109121104j:plain f:id:sate-pote:20181109121732j:plain f:id:sate-pote:20181109122047j:plain

カワイイ、ですね。

ここに掲載させていただいた方々が「カッコイイ」、「カワイイ」に当てはまることは、この記事を見ていただいている皆さん全てに同意していただけるものと思います。でも、皆さん、惰性でカッコイイと思っていませんか?惰性でカワイイと思っていませんか?「カッコイイ」とは何か。「カワイイ」とは何か。

先ほどの画像をもういちど見てください。それぞれに特徴はありますが、性別に関わらず、いくつかの共通点を一様に持ち合わせています。ハッキリとした顔立ち、目がパッチリ、鼻がシュッとしていることなどですね。あぁ~。ため息を堪えきれません。「カッコイイ」、「カワイイ」、なんと多様性が無いのでしょう。カッコイイ、カワイイとされている俳優、容貌をウリにしているアイドルなど全員が、同じ基準の中にいるのです。「イケメンにも美女にも色々なタイプがいますよ」、そうおっしゃる方もいるでしょう。そうですね、それは認めます。しかし、それは余りにも狭い範囲での話です。私の経験上、「カッコイイ」、「カワイイ」、そのどちらも完全に3パターンに区別できます。「タイプ:アカデミック」、「タイプ:イノセンス」、「タイプ:ワイルド」の3つです。タイプ:アカデミックは、理知的なものがそこはかとなく漂っているフェイスタイプ。タイプ:イノセンスは、純真さ、素朴さを感じられるフェイスタイプ。そして、タイプ:ワイルドは、顔のアクセントが比較的強いフェイスタイプのことです。このように、美の規格は完全に分離させてしまうことができるんですね。もはや、美というものは定量化することも不可能ではないのかもしれない、そう思わせられます。もちろん、この3つの分類は私の独断的なものでありますので、必ずしも正しいとは言えません。しかし、正しくないとも言えないでしょう。当たらずとも遠からず、私はそう思っております。

ここまでに書いてきたことは、芸能界の話ですね。芸能界だけで完結しているのであれば、このような記事を書こうとは思わなかったでしょう。 私が危惧していることは、上に書いたような尺度が社会全体にまで普遍化していることです。

「ねぇ~SKくんってカッコよくない?」

「分かる(食い気味)!菅田将暉に似てるよね!」

「あ~言われてみれば似てるぅ!」

皆さんは、このような会話を聞いたことがないでしょうか?我々の「カッコイイ」、「カワイイ」は、すでに他者によって作られたそれに大きく依存しているのです。私は、いち恋愛コーディネーターとして、ここに警鐘を鳴らします。芸能界の基準とて何も特別ではなく、社会の基準の延長線上にあり、全くおかしな事象ではないとする弁駁もあるかもしれません。それは間違っていないと思います。しかし、その社会の基準すら、とうに、作られた基準に依存しているのです。もはや、社会の構成要素である個人が「カッコイイ」、「カワイイ」を決定しようとする気力を喪失しています。そのために、美醜の判定を他者、すなわち、芸能界やファッション業界に委ねてしまっているのです。

私は、このような画一化された美への依存症を、現代に蔓延する大きな病であると考えています。現代、と書きましたが、ここまでに述べてきた傾向は現代に限定されず、人間社会がある程度成熟した段階で存在していたと思います。しかし、それは現代におけるインターネットの普及によって、急激に伝播しました。過度な画一化は、我々に何をもたらすでしょうか。与えられた基準を疑おうともしない信者たちは、様々な方法を用いてそれを手に入れようとします。運よく入手できたものたちは、世界を謳歌しようとするでしょう。しかし、手に入れられなかったものたちはどうでしょうか。他者を憎み、自己を憎み、世界を憎むでしょう。その憎悪は、他者を壊す原動になり、自己を壊す原動になり、世界を壊したいと望むようになるでしょう。ここでは美の画一化について考えていますが、美に限られず、行き過ぎた画一化の着地点は全て同じです。私は、そのような過剰な画一化が現代のあちらこちらで起きているように思えてなりません。我々は考えることを決してやめてはなりません。疑い、そして納得することをやめてはなりません。私は、このふたつが、過度な画一化に抗うために不可欠なものであると確信しています。

少し話が逸れてしまいました。「カッコイイ」、「カワイイ」の話に戻りましょう。ここまでの話で書いたように、我々は、作られた「カッコイイ」、「カワイイ」に支配されています。では、どうすればこの呪縛から逃れられるのでしょうか。ひとつ、簡単な解決方法があります。それは、目を閉じることです。目を閉じ、私たち全員が盲人になってしまえば、見えないのですから当然「カッコイイ」、「カワイイ」に左右されることはなくなります。 しかし、これはあまりにも極端であり、暴力的でもあります。また、視力がなくなったとしても、今度は聴覚や触覚による部分で同様のことが起きるでしょう。このタイプの声は綺麗で、あのタイプの声は綺麗でないといった風に。したがって、この方法は採れませんね。私たちの本能はまだ汚染されていないとすれば、どうでしょうか。各々の本能の中に眠る、真の美の基準を呼び覚ましてはどうでしょうか。こちらは随分と抽象的ですね。やはり、我々ひとりひとりが理性を従えて、この事実を考えていくしか方法はないでしょう。くだらないと思いますか?そんなことしてどうなるんだと思いますか?私は、少しでも考えてみようとしない人間のほうがくだらないと思います。いえ、私は強制はいたしませんし、アウトローぶってこのようなことを言っているわけではありません。ただ、己の内に絶対的な基準を持つこと、それは素晴らしいものであると伝えておきたいのです。恋愛というものは、複雑で怪奇なものです。男と女、そのふたりで完結しているものと思っていても、実際はそうではありません。ときに、誇示的な関係に終始することもあります。インターネット、特にSNSの普及により、誇示的な恋愛は爆発的に増加しています。しかし、「カッコイイ」も「カワイイ」もあなたの中、それもずっと奥のほうにあり、それこそが理想と呼ばれるものなのであります。私は、このことを現代の若者に伝えたいと思います。


今回は、「カッコイイ」と「カワイイ」について考えました。いかがでしたでしょうか。あなたの恋愛に多少なりとも良い影響を与えたのであれば幸甚です。「美しいものを美しいと感じ、美しくないものの中に美しいものを見出す。」素敵じゃあないですか。実はこの言葉、私が恋愛コーディネーターの師匠と仰ぐ方の言葉なんです。この言葉を常に心に留めて、私は恋愛をコーディネートしています。

それでは、次回またお会いしましょう。

グッド・ラヴ・ライフ。