らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

【詩】衰弱

僕はこういう場所にいる。外はいつでも人がいる、深夜であっても人はすぐに見つけられて、人がいない時間をつくらないために交替制をとっているかのようである。それに音がしない時間もない。話し声や、車の音、電車の音もある。規則に従って一定の間隔で発されるものもあるが、不規則で気分次第といったようなものの方が多くある。音はあまりに多く、聞くものの耳に入りきらない音もある。行き先を失った音はどこかに身を潜めて、聞く耳の方に余裕があるようになったらまた行けばいいと考える。音は多いが聞く方も多く、それほど待たされることはない。例えばコンクリートの道にできた小さな欠けや隙間の中に潜んでその機会を待っている。音は隙間の中でほかの音と混じり、凶器のようにかん高い音になることがある。僕はそのような音を聞いたことがある。それは左の耳だけを狙ってきた。僕はそれからしばらく右の耳だけで音に対峙するしかなかった。この場所に住めばこういう危険性がある。僕はここではよそ者ということになる。ここで生まれてここを離れることがなかったもの、あるいは似たような場所で生まれ育ったものは音に敏感でない。それどころか自分の聞きたいものだけを聞く能力を持っているとさえ思われる。ひどく不快な音がしても全く意に介さないでいられる。僕と同じように音に反応するものはよそ者であることになる。しかし僕たちはよそ者であることは同じだが、同じようなよそ者ではない。僕はこの場所の誰についても知らない。僕が住んでいる国は島国で、僕はこのうるさい通りに面した建物の三階に住んでいる。僕は音に神経質になって、こまごまとした音にも気をとられてしまう。ひとつも聞き逃さないようにと視覚や触覚も動員して聴覚を研ぎ澄ませる。聞いたことのない音があると、どこからの音なのかを判明させないといけないような気持ちになる。日のうちに何度か床を叩いているような音がするが、僕はこの音の出所をまだ掴めていない。水滴が床に落ちるときにできる音にも似ている。音のする時間は決まっていないが、リズムは非常に一定していて人間が出しているものとは思えない。僕はこの音が聞こえはじめると集中してどこからの音なのかを探ろうとする。しかしまだ分っていない。目は瞼を閉じれば役目を一切果たせなくなるが、耳は瞼のようなものを持たない。僕はそのような進化があっても良かったのではないかと思う。音を聞かないようにするためにわざわざ手を耳に持っていかなくても済むような進化を。そうなっていないのだから多数決で却下されたのだろう。僕はこの場所で今までの全ての繋がりを断ったようにして時間を過ごしている。自分がたてる音にも過敏になって、まるで小さなごみ、何倍にも拡大しないと見えないごみのようである。僕はごみである。占める容積があまりに小さいので、失くなったとしても誰も埋め合わせをしようとすら考えないだろう。ごみである僕はごみとしての目線を持っている。だから僕は全部の人間がごみのようであることを知っている、それぞれの容積に大小はあるがこれはごみとしての違いであってごみであることの違いにはならないことを知っている。僕たちを別するのはごみであるかどうかではなく、ごみであることに気付くかどうかである。そして気付いたものはごみで、気付かないものはごみでないようにいられる。ごみでないものはごみであるものに対して軽蔑することができる。ごみは処分されるだけであって、丁重に扱う必要はない。ただし分別はしてくれる。燃えるごみ、燃えないごみ、ごみだがまだつかいようがあるごみ、本当に使い道がなくて今すぐにでも処分しないと有害になるごみ。細かく分別するときりがない。僕は自分がどういうごみに分けられているか知らないが、どのようなものであっても同じように処分されるのだから知ろうとは考えない。僕自身がごみであることに気付き、その後はじめて鏡を見たときにはこれまで感じたことがないほどの戦慄を覚えた。僕の髪は長いものや短いものが乱雑に生えていた。生えているのではなく植えつけられているようで、成長は感じられず、あとは抜け落ちていくだけのようであった。それに肌もだった。滅紫の色をした染みが頬や額にいくつも浮き出ていた。染みとそうでない部分の区別は難しく、顔の全体が染みであるかと思わされた。そして僕が最後に見たのは目だった。最も戦慄したのもこの目だった。僕の目は充血しきっていて、幾通りにも分裂した毛細血管が黒眼を目指して行き渡っていた。また、眼球も不自然だった。あれはどういうことだったろう。僕の眼球は透明な薄い膜で覆われていた。目をぎょろぎょろと動かすと膜が眼球全体に及んでいることが分った。僕が見ることができるのはこの膜に写ったものだけということになるのだろう。じきに目が見えなくなるだろうと思った。そして叫び出しそうになるのを抑えながら僕は鏡の前から逃げ去った。このときの僕にはこうして逃げることか、そのまま鏡の中の僕と見つめあってどちらかが死ぬのを待つことかしかできなかっただろう。鏡の中の僕が死ぬためには僕の方から先に死ななければいけなかっただろう。僕はそれから鏡を見ていない。実はもう目は見えなくなっていて今見えているものは膜の内側にある残像なのかもしれない。そうだとすれば、この残像を全部見てしまったら僕は本当に目が見えなくなるだろう。それに僕を錯乱させようとしてくるこの音も外からの音ではないのかもしれない。鼓膜が悪戯としてひとりでに振動しているだけなのかもしれない。いずれにしても僕はもう遠くまで見えなくなったし、遠くの音も聞こえなくなった。今の僕には昔の人間が世界をどのように考えていたから分りそうである。ひとりの人間が知りうることは非常に限定的だっただろう。山しか知らないものは海を知らなかっただろうし、海しか知らないものは山を知らなかっただろう。空はどこでも見られただろうが、暗くなってから現れる光点ひとつひとつが想像できないほどに大きいとは思わなかっただろう。その時代の世界はさまざまな世界が同居した世界だった。どのような世界も許された。僕はその世界を羨ましいと思う。僕がその世界にあったら知らないことではなく知っていることを好んでいられただろう。僕たちの世界もそのうちに昔の世界になっていくことは当然である。僕たちの世界を羨ましいと思うものが出てくるだろうか。もしいたとしてもそれは僕のようなごみの目に写される世界ではないだろう。だが僕は、この世界の中でごみとして見て聞いているのである。それに僕は怯えることだってある。ごみである僕にも怯えることがあるのである。全身から玉のような汗を噴き出して嘔吐したさを我慢できなくて仕方ないことがあるのである。僕はこの怯えのような貧しさが本物の貧しさであると信じよう。毎日が変わりばえないからと言って満たされたものが暇潰しのためにつくりあげた貧しさではないと僕は考えるのである。そのような貧しさであれば最後まで使いきれるようにと調整された貧しさであるはずで、しかしぼくの貧しさはそうではないのである。そして僕は死んだように生きているのではないとも信じよう。死ぬのを恐れているために、それならば生きながら死んでいけば恐怖を軽減することができると思っているものとは違うのだと。こうして熱を帯びて動いている僕は死の予感を持っておらず、少なくとも生きているうちに死ぬことはないだろうと。僕はこのように信じよう。もはや模倣は何ひとつなく、誰の助力もなしで信じよう。僕はそう信じることを示そう。