らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

特に言うこともないけれどについて

ある種の古典とされる本を読んだこと、そういったことを教養と呼ぶのであれば、僕は教養なぞを身に付けたくはないと思う。エリート主義から派生したような教養を身に着けることに、一体どれほどの価値があるのかと思う。さて、このような感情は僕のどこから湧き出ているのか考えてみる。それは単純に言えば僕のコンプレックスから現れたものだと分かる。コンプレックスとは誠に便利かつ複雑な言葉で、その意味は個人によって全く異なってくる。したがって、コンプレックスという単語を用いた時、そこにはしっかりとした説明が必要なのであるがコンプレックスとは他人には触れてほしくない部分でもあり、その仔細にまで説明が為されることは一般的に少ない。それでは、このコンプレックスとは何なのか、僕には説明する義務がここで発生している。教養に対する反発、それは僕が教養を身に着けることができなかったために生成された強がりとも捉えることのできる感情に由来を持つ。手に入れられないものに対する羨望が反転し、むしろそのようなものは始めから無くても構わないと決め付けたのだ。では、なぜこの反転が僕の内で起きたのか。自己保身。自己保身が羨望を強がりへと変化させたのだ。自らの欠如から自らを傷つけないようにするために、知らず知らずのうちに変化は起こる。こういった仕掛けは僕に限らず、おおよそほとんどの人間が持つものだと推察できる。なぜなら、自分に耐えられないために他人を貶す人間を今までに数多く観測してきたからだ。彼らは自分の欠点に気付くと同時に自分の欠点はどうにもならないことにも気付き、その心細さを外に放とうとする。僕も基本的には彼らと同じだ。基本的、というのは、僕はこの構造についてよく知っているという点のみで彼らと違うからである。ではこの違いがどれほどのものなのかは分からないし、良いことなのか悪いことなのかもまた分からず、良いとは悪いとはこの場合どういう意味で扱うべきかも実際分かっていない。そしてまた、この違いについて考えることはさほど大切なことではないとも思う。ここで何より重要なことは、僕がどうすべきかということだからだ。つまり、僕はこの仕掛けとそこから生み出される感情にどのように対処するべきかを考える必要がある。コンプレックスとは個人によって大きく異なると言ったが、確かに表面的にはそうであるが、実はその発生過程は似たり寄ったりで、ほとんどがこのような自己保身によるものである。欠如そのものから生まれる感情ではなく、欠如から自然と現れる自己保身がコンプレックスの源なのである。したがって、ここまで言ったことへの対処法を得るということは自ずと一般的な方法に拡張されることになるから、十分に価値のあることであると言える。ただ、僕の経験としては、対処法の探求は困難でありながら、行き着く先はそこからは予想もつかないようなありきたりな方法である。すなわち、欠如から目を逸らし、別の領域で安息を得ようとすることである。どうにもならない欠如は、自分が自分である限りは不変のものであるから、結局は無視することが最善となり、これ以外の方法は無いと考えられる。自分が自分であることを忘れようとしても不可能なのであるから、安定を図ろうとするなら見ないようにする以外ないことは明白だ。悲しむために悲しみ、疑うために疑い、傷付くために傷付く人がいる。僕はこの類の人間とは違うことをはっきりと認識できるようにならなければいけない。このためには僕は安息を求めるのではなくむしろその逆を実行しなければならないと考えている。確かに、悲しみや疑いから抜け出して安心を獲得できるのならばきっと良いことなのだろうとは思うが、僕には無理だからこの方法には頼れない。よって僕はするべきことは落胆から目を逸らすことではなく、その反対である。しかしこれだけでは、僕は悲しむために悲しむ人間と同じになってしまう。そのために僕は、落胆の観測から悲しみではない別のものを探さなければいけなくもあるのである。

コンプレックスという特定の事項に対してはこのようである。ただし方法を提示しただけで、結果に関しては何も言っていない。近頃思っていることは、ある任意の事態への一般的な対処法があるのか、ということである。この方法の下では少なくとも僕に関することであれば、うまく用いることによって解決することができるだろう。もちろん、この方法が本当にあれば、であるが。僕は方法から得られる最良の結果ではなく方法それ自体を求めているのだ。すなわち、公理とも呼べるものだ。注意したいことは、この公理とは僕だけのものであり、ほかの誰かが従うものではないということだ。僕はこの意味で独りよがりでいたいと思うし、公理の発見のためにはそうでなければいけないとも思う。ほかの人間について考えることは完全に意味を持たない。ほかの人間という存在を透かして自分を見つめるときにはじめて行為が意味を持つ。僕たちは誰でも多かれ少なかれ虚しさを持っている。そして、虚しさを埋めるために誰かと一緒になろうとする人もいるが、彼らはその行為が実は虚しさを増長させていることに気付いていないとしか僕は思えない。僕の虚しさを解消できるのはきっと僕だけであるし、また、虚しさに対抗する唯一の手段がここで言う公理だと考える。普通、公理とはそこを出発点とするべきであるが、僕はすぐに分かるように既に始まっているのだから、そうはできない。したがって、公理はむしろ自分で見つけなければいけないものとなる。では、公理を見つけるにはどうすればいいか。そのためには、ひとつずつ自分を掘り下げていくことだ。恥ずかしいことも含んだ自分の全ての感情について考えることによって、公理は得られると思っている。始めに言ったことは、この公理の発見こそが僕に関して最も重要な目的であると考えているから、誰かの言葉をわざわざ学ぶ必要が無いということの言い換えとなるのだ。僕はほかの多くの日本人と同じようにして仕事に時間を割かなければ生きていけず、つまり時代性を避けることはできない。古い時代の人間の言葉を学ぶことは、時代性という観点からただの知識に過ぎず、結局は役に立たないものなのだ。僕は自分でも呆れるくらいに自分を考えなければいけない。そうすることがほかの人間からみれば馬鹿々々しいものであるのはよく分かっているが、ほかの人間は僕ではないからどっちでも良い。僕は人と違うことが分かってきたから、人にとって当たり前な事でも膨大な時間を割かざるをえない、白状すれば、それは悲しいことだと思う。もし、を考えても仕方がない。ある人にとって、教養を身に付けられるような環境に生まれなかったことがコンプレックスだとしても、そうではなかった場合を考えてもどうにもならない。なぜならば、仮定からは事実が導かれなければいけないからだ。仮定の結果としての事実が得られないのであれば、そのような仮定は間違っているのだ。仮定からは事実が導かれなければいけない、これは僕の公理のなかのひとつであると思う。僕は別に悲しみたいわけではないし、できるのであれば楽しくありたいと思う。ただ、いつの間にか本当に楽しいことは忘れてしまい、悲しみの間にある空白を楽しいことと錯覚するようになった。それでも、悲しみが憎しみになること、喜びが蔑みになること、これは避けなければいけないから僕はとにかく僕を考えなければいけない。僕だけを考えなければいけない。僕だけを考えるということは、そこからは他人にとって重要なことは何も生まれないということでもあるが、僕は他人と違うのだから、犠牲にしなければ仕方ないこともあるのだろう。それもまた悲しいことであるが、この悲しみが悲しみの再生産にならず、憎しみへと変貌しないように、僕は考えようと思う。