らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

愛について

愛という言葉、概念がある。この愛というものは、非常に曖昧模糊としたもので、抽象的極まりないものである一方、僕たち人間が求めてやまないものでもある。求めている、と意識していないにせよ、僕たちは愛を求めているのである。それは、この愛という概念が持つ曖昧性によるものである。一般にイメージするであろう男女間のものに限らず、僕たちは全てに愛を見出すことができるからだ。つまり人間に対してだけではなく、動物や植物、そして生物でなくとも、また形を備えていなくても、僕たち人間はそれら全部に愛情を持つことができるということを示している。僕たちは生活を送る上で本能的に愛を探している。好きな色、好きな音、好きな匂い……。何もかもに愛を与えようとする。愛というものをこのように広義的に捉えることで、生きるという行為は愛によって成立しているのだと気付かされる。しかし愛とは一体何なのであろうか?人間がこうまでして渇望するものでありながら、触れることすら許してはくれないであろう抽象性を持っている。

では、人間はどのようなときに愛を求めるのだろう。僕たちは何かを理解することはできない。人間は自分以外の人間を理解することは不可能であるし、人間以外の何かを完全に理解することも不可能である。何より自分自身を理解することすら叶わない。それは僕たちが、完全な主観と完全な客観の両方を持ちえないからである。何かを理解しようとする人間は、自身を通してでしかその何かを見ることができず、そのために対象の完全な理解は決してすることができない。もちろん言葉への変換などの問題もあるが、何より重大な原因はこれなのである。自身も含めた何かはそこにありのままに存在しているのだが、僕たちはそれをありのままに解することができない。よって、何かを理解することは絶対に不可能であるという結論に到着するのである。では、どうすれば良いのだろうか。理解したいと願えるほど大事な存在に出逢ったとき、人間は一体これまでどうしてきたのだろうか。それこそが愛なのである。人間は何かを理解したいと真に願った時、そして、何かを理解することなどできるはずがないと気付いた時に愛というものを己の内に生み出す。したがって、愛とは個々の分かり合えなさによって作られるものだと考えることができる。人間以外の生物は愛を持つことはできない。愛情というものは人間の特質であり、すなわち、人間を人間たらしめているものが愛情なのだ。

こうして考えると、愛というものはげに偉大なものであると思わせられる。そして、分かり合えなさによって愛が生じると言ったが、これは悲しむべきことだとも考えられる。愛の偉大さは、同時に痛烈な悲哀を漂わせている。つまりは愛とは、人間は究極的に個であるという絶望から目を逸らした先にあるものである。僕たちは愛によって安心を得るが、絶望の先にあるものから安心を得るとはなんたる矛盾だろうか。しかし、愛によって得られるものは安心だけではない。時に愛は人間を死に誘うものともなり得るのである。一方がもう一方の全てを理解したいと願うあまりに愛が暴走し、その結果、過剰な愛は憎悪に変わり破壊衝動へと変化することがある。そして、その衝動がもう一方の生命を奪う行動を起こさせる。これは特に男女間の場合を考えれば分かりやすい。これほど極端に死とはいかないまでも、愛は安心だけではなく不幸の素となることもあるのだ。上の例は行き過ぎた愛によるものであるが、その逆の例もある。愛していたものが期待とは異なっていた、愛されていると感じていたのにそうではなかったなどの、愛の不足が招く裏切りである。それでも愛は安心を時折与えることは事実であり、ある人間にとっては生きる理由になることもある。愛は生きる理由にも死ぬ理由にもなるのだ。すなわち、愛とはあらゆる幸せと不幸せを作り出すものなのである。そして、愛の根底に分かり合えなさという絶望があるとすれば、愛とは絶望を幸せにも不幸せにも変換する作用をもったものとすることができる。愛は素晴らしいものだと多くの人間が言う。確かに、絶望を希望を含んだあらゆるものに遷移させることができる愛は素晴らしいものだと言えなくもないかもしれない、とある程度の納得を手に入れることができる。

愛は生きる理由にもなれば死ぬ理由にもなると言ったが、とりわけ男女間の愛は生まれる理由にもなる。生まれる直截的な理由になる行為に至る激情もまた愛であり、それは過剰な愛の一種であると考えることができる。愛を自らの中に収めることができず、溢れてしまったものを相手にぶつけた結果としてその行為に及ぶこととなるからである。愛が人間が生まれる理由であるならば、人間が初めて経験する愛は、愛される愛ということになる。すなわち、人間が最初に得る愛は受動としての愛なのである。そして、愛すること、つまり能動としての愛は人間が人間として生きていく中で獲得していく感情なのである。愛される愛、受動の愛と、愛する愛、能動の愛のどちらもが愛である。すると、どちらの愛がより優れているのだろうか。それらの間には優劣は存在しない。受動であろうが能動であろうが、そこから導かれる幸福と不幸に差は無い。しかし、この2つには決定的な違いがある。ここで言う違いとは次のようなものである。人間は愛を求めるとき、愛することではなく、まず始めに愛されることを望む。過去への懐古から既に経験した理由のない安心感を求めようとして、もしくは過去に負わされた傷を癒そうとして愛されることを望むのである。このどちらもが愛することでは満たせないものであり、そしてなぜ愛することよりも愛されることを求めるのかというのは、愛されることは愛を求めるようになった人間にとっては愛することよりも良いもののように思えるからだ。愛を求めるようになったばかりの人間は愛を信じ切っている。愛の恐怖を考えることなしに、愛されることだけが愛の全てだと信じている。しかしそのような人間も生きていくにつれ経験するだろう。愛されたいのに愛されないという恐怖を。彼らは困惑する。これほど愛を欲しているのに愛されないとはなんて悲しいことなのだろう、と。いっそのことやめてしまおうか、と。だが、人間は愛を求めることを止められない存在である。そうしてついに受動としての愛を得られなかった彼らは、愛とは愛されるだけではなく愛することもまた愛であると気付くのである。愛することを学んだ人間は愛されなかった代償に愛する対象を探すことになる。しかし、必死になって探しても見つけることができない人間がいる。愛されることも知らず、愛することもできない彼らはどうするのだろうか。彼らは、何からも愛されず何を愛することもできないのであれば自分を愛せばいいではないか、という帰結に辿り着く。外部からの愛が存在しないのであれば、自身の中で愛を完結させようという結論は当然のものである。だが彼らは彼らを愛することが出来ない。なぜなら、彼らにとっての彼らは、愛されもせず愛することもできなかった人間であるからだ。そのような人間を愛することができるほど彼らは上等な人間ではないし、抑々そうではないからこそ自らを愛そうとしているのだ。己を愛したいのに愛することができない苦しみは、愛が生み出す苦痛の中で最大のものである。この苦しみを和らげる方法などあるのだろうか。愛を自らに向けるというとっておきの手段をとり、さらにそれを達成することができない彼らは、もうどうすることもできない。この難問に対する解答はない。そこから先はひとりひとりの問題になり、愛を諦めて空虚を抱えて進むか、それでも愛を信じて理想を探しながら進むかは彼ら個人に委ねられることになる。しかし、たとえ愛を諦めたとしてもそれは見せかけの決意であり、そう決めた人間は心の奥底では実はそうしなかった人間よりも愛を強く信じている。人はどうあがいても愛を求めてしまうからだ。愛する対象を見つけられなかった人間が行き着く先は喪失感であるが、しかし愛する対象を見つけることができた人間が絶対的に良いわけではないことに注意する必要がある。愛されなかったことに拘り続ける人間はその分を愛することで埋めようとし、過剰な愛を対象に注ぐようになる。すると先ほど言ったように、この愛が両者の相互的な関係を崩すようになるのだ。

このように、世の中で最も純粋なものとして扱われてしまいがちな愛にはいくつか落とし穴がある。受動としてなのか能動としてなのかを常に区別する必要があるし、人間には耐えられないほどの過大な愛は愛で繋がれた関係を壊す。しかし、2人の間でお互いに愛することと愛されることが成り立っており、またその度量が安定したものであれば、愛から得られる幸福はこの上ないものだろう。分かり合えないからこそ、人間は人間を愛そうとする。理解し合えない僕たち人間はこの人間同士の愛に何を求めるのだろう。愛と関連している概念として、死がある。死は愛について考えるときに避けては通れないものである。したがって、僕たちが愛に求めているものとは、永遠性である。人間は常に何かが消失するのを恐れている。ここにある何もかも全ては時と共に消失し、過去になる。それを恐れているために愛という概念に救いを見出し、永遠性を与えようとする。その永遠性を一瞬でも感じられたとき、そして、ずっとこうしていられたらと思えたときに人は人としての幸福に包まれることになる。

このような解釈は僕が愛を誇大に考えているためなのだろうか。愛し合っている人間に、なぜあなたはパートナーを愛しているのですか、と聞いてみる。性格だとか、直観だとか、ときには運命だとか、それぞれの答えが返ってくることだろう。だが、それらの答えは理由になっていない。愛し合っている人間はその愛に言葉を与えることができない。愛とは永遠であり、有限である人間はそれを知ることができないためだ。なぜそこに愛があるのかいくら理由を言ったとしても、愛の前においては全てが後付けになるのだ。そう、愛とは所詮そんなものなのだ。偉大であり、ちっぽけであるのだ。