らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

絶望について

僕は読書が好きだ。読書と言っても、高尚な本を読むわけではない。日本や海外の文豪が書いた、名作と呼ばれる本を好んで読むわけでもないし、晦渋な文章で構成される小難しい本を読もうともしていない。さほど時間をかけずに読めそうで、面白そうだと思った本を読むだけである。そして、読書は確かに好きなのだが、読書家と言えるほど多くの本を読むわけでもない。そもそも、僕は本を読み進めるスピードが人に比べて遅い。また、ジャンルに関わらず色々な作家の本を読むというよりかは、どちらかと言えば、お気に入りの作家が書いた本を読む傾向にあると思う。そうすると、ある作家が書いた本に出てきた表現が、その作家が書いた別の本にも同じように登場していることに気付く。ある人間が書いた文章には、その人間が持っている思想が必ず入り込んでいるから、それは当然だろう。しかし、これは憂うべきものだと思わないだろうか。たとえば、フィクション小説の場合、フィクションとして物語を書いているのに、その物語を書く人間の考え方に依存せずにはいられない。ノンフィクションの場合でも、同じことが言える。主観性を排除しなければいけないのに、文章の構成や伝え方に書く人間の思考がどうしても滲み出てしまう。なんて悲しいことなんだろう。つまりこれは、僕は僕の中でしか考えることができないということだ。僕は僕に一生囚われる。だから、僕は生きている間ずっと同じことを言い続けるのかもしれない。僕が何をどう言おうと、それは言葉を言い換えただけで、奥のほうにあるものは全部同じなのかもしれない。

人間は、その人の中にある経験や物の捉え方に依存せずにはいられない。これも当然だ。今があるのは過去があるからで、未来があるのは今があるからだ。僕たちは個人なのだ。いくら群れて行動しようと、いくら人間が社会的動物であると主張しようと、僕たちは個人の中でしか生きられない。個人の中でしか生きられないから、個人同士で繋がろうとする。例えば、このブログだってそうだ。僕の話を誰かに聞いてほしくて、僕はこれを書いている。そういった意思を明確に持って始めたわけではないが、突き詰めれば、そういうことだろう。個人同士で繋がることは可能なのだろうか。不可能だ。個人は、別の個人を本当に理解することなど絶対に出来ない。個人は別の個人になることができないからだ。例えば、素晴らしい才能を持った天才と呼ばれる人間が、自分は何にでもなれる、と思うならばそれは間違いで、実際その天才は何の才能も持たない凡人になることができない。だから、人間は別の人間と分かり合うことなどできない。いや、そんなことはない、などとのたまう人間はただ途方もなく楽観的なだけだ。僕は今ここで生きていることが恥ずかしい。何も理解できないのならば、なぜ、今ここにいるのか分からなくなる。道ですれ違っただけの誰かに僕は絶対に理解されないし、その逆に僕はその誰かを理解することは絶対にできない。人間は人間以外にはなれない。人間であったとしても、別の人間を理解することはできない。そうであるならば、僕が人間である意味って何だろう。僕は僕の中で、個人性に死ぬまで耐え続けなければいけないのだろうか。

僕は自分に失望している。僕は性格が悪い。いつだって正しくありたいのに、僕は清廉潔白ではいられない。誰かを馬鹿にするし、イライラもする。誰かを馬鹿にする度にその言葉が跳ね返ってくるし、誰かを馬鹿にして自分を保とうとする僕が一番馬鹿だ。自分がうまくいっていないときは優しくなることができないし、くだらない人間だと見下しそうにもなる。うまくいっている誰かを妬むし、そのくせに努力をしようともしない。人間として低級なのだ。誰かと会話しているとき、前も同じようなことを話したな、と思うことがしょっちゅうある。そのように思ったとき、僕は決まってイライラする。相手にイライラしているのではなく、同じような話をしてしまう自分が虚しくなってイライラする。これは相手に無礼な行為だ。僕は、相手と会話しているのではなくて、自分しか見ていないのだ。虚しいし、本当に無礼だ。なぜ同じ会話を繰り返してしまうかと言えば、それは僕が、話したことがあるということを忘れているからだ。僕はすぐに忘れる。昨日、なんで嬉しい気持ちになったのかも、なんで悲しい気持ちになったのかも思い出すことができない。じゃあ、過去って何だろう。過去があるから今があるのに、今は過去を思い出すことができないのなら、今って何だろう。本当にくだらない。僕がくだらないことしか考えられないくだらない人間だから、くだらないものしか見ることができない。

ふと自分を顧みると、嫌いな人間がいないことに気が付く。誰かを心の底から嫌いになったことがない。もちろん、嫌なことを言われれば、その時々で相手に腹を立てたりするが、すぐにどうでも良くなる。だが、僕は聖者じゃない。このことはすなわち、僕が自分しか見ていないエゴの塊のような人間であることを示している。上で言った会話の話と同じだ。僕は個人の中でしか生きられないことを自覚しているから、こんな人間になってしまったのだ。それが正しいかどうかも分からないのに、そう決めつけている。嫌いな人間がいないことを良いことだと思うだろうか。笑うのは泣くからで、嬉しくなるのは悲しくなるからだ。だから、人を本当に嫌いになれないということは、僕は何かを本当に愛することができないということだ。例えば、結婚している夫婦を考えた場合、この2人はお互いを本当に愛しているのだろうか。一体何に満足しているのだろうか。僕はほかの人間を理解することはできないから、この2人が、ほかの人間が何かを愛することができる人間かどうかは分かりえない。それが普通なのかも分からない。だからどうしようもない。どうしようもないということは、本当に、本当に悲しいことだ。

だから何だというのだろう。僕は、僕を拡大することができる。今までだってそうしてきた。僕は確かに僕でしかいられないけれど、僕じゃない誰かの話を聞くことや、決して理解できない誰かを理解しようとすることで、僕は僕を広げることができる。本を読むことだってそうだ。ただ文章を読むだけじゃない。その本にはそれを書いた人間の考え方が濃縮されているから、そうしようとすれば、僕はそこから僕を広げることが可能だ。そして、僕は永遠に個人だが、それは、世界には僕とそれ以外しか存在しないということでもある。世界は、僕がいなければ成立しない。素晴らしいことだ。僕は低級の人間で欠けていることばかりだから、僕以外の全てから何かを得ることができる。僕はずっと僕だから、長い時間をかけながら僕を育てていくことができる。その度に新しいものが手に入る。しかし、どれほど遠くへ行こうと僕はくだらないままだ。これは変わらない。くだらない僕はくだらなくないものを見ることはできないが、見ることができないものは見ることができないから、決して失くならない。全部忘れてしまうから、このくだらない瞬間の全てを憶えておけるように、心と体全部で生きていこうと思えてくるのだ。今が過去になった未来でどう抗おうと何も思い出せないけれど、感じることができるのは今しかないから今の全てを感じ取りたいと願うのだ。僕は僕のことが可哀想なんだろう。自分のことを憎んで、自分の存在を正当化しているのだろう。そのように振舞えば、許されるとでも勘違いしているのだろう。僕という人間は本当にどうしようもない。どうしようもないことは、当然ある。どうしようもないことは、どうしたって気になるから、逆らうのではなくて、かと言って流されるのでもなくて、ただそれを自分の中に隠すだけで良い。

こんなことを言っている今の僕に対して、未来の僕はどう思うのだろうか。きっと、自分勝手なことを言っている、と思うのだろう。未来の僕は、今の僕に反発して何かを言うのだろう。結局、今の僕と同じことを言うのだろう。どれほど自分を広げようと、僕は同じことを言い続けるから。それで良いのだ。それは、未来の僕もちゃんと僕だということを教えてくれるから。何も憶えていられなくとも、未来の僕は僕だ。僕が僕で良かった!道ですれ違っただけの誰かに、ありがとうと言いたい気持ちだ。2人の幸せを心から祝いたい気持ちだ。何も貰っていないのに、僕以外の人間全員にお返しをしたい気持ちだ。希望があるから絶望があるのだけれど、絶望があるからこそ希望があるのだ。信じて良いのは、絶望だけ。