らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

似るについて

僕は親に、多分、似ている。親から生まれてきた僕が、親に似るのは当然のことなのだろう。気持ち悪い。「似ている」が気持ち悪い。鏡で、自分のカッコイイとは絶対に言えない顔を見ると、どことなく父親の佇まいを感じる。特に目尻はよく似ている。僕にはこれが本当に、耐え難い事実としか思えないのだ。つまり、僕には出自があるのだ。僕は僕に起因するものがあったからこそ、今ここにあるのだ。そう考えると、僕がここにあることが、途端にくだらないことのように思えてしまう。ありふれた存在なのだ。ありふれた存在とは、急に消えたとしても代わりがすぐに出てくる、そんな存在なのだ。ああ、僕は運が悪い。なぜならば、僕として生まれてしまったからだ。何の因果か、僕は僕に選ばれてしまった。そして、この先ずっと僕として生きていかなければならないことが、苦行としか思えないのだ。

そう、生きるということは、まさに苦行そのもので、死という選択を選ばないことが怠慢にすら思えてくる。しかし、このようにも考える。どうせ自動的に訪れるそれを自ら早める必要はないのかもしれない、と。これを僕の、生きることに対しての前向きな意思と捉えてよいのだろうか。僕は生きたいのか、死にたいのか分からない。生きたくなって、死にたくなるけどなるだけで、生きたくなって。それが不安なのだ。定まらない、定まることのできないことが不安で、どうしようもない。この遣る瀬の無さは、どこにも行きようがない。

手を見てみる。この手も10年、20年経てば、深く皺が刻まれるようになる。このことも、どうしようもない。生きるとはそういうことなのだから。僕はもう成長せず、あとは老いるだけなのだな、と実感する。実感して、今のこの時間が愛おしくてたまらないような気持ちに一瞬なるが、なるだけで、これもまたどうしようもないものなのだ。世の中にはどうしようもないものがいくつあるのだろうか。生きるとか、死ぬとか、どうしようもない。どうしようもないから生きるし、どうしようもなくなって死ぬのだろうか。不安だ。

僕たち人間は、「似ている」に敏感だ。それは詮ずる所、安心したいからなのだろう。誰しも自分の不安定さを恐れており、だからこそ自分に似ている人間を見つけて、自分の存在を外部から確かめた気になって安心しようとする。僕はひとりだから不安なのだろうか。群れようとする種の人間がいる。彼らも実は同じように不安で、その不安から逃げるために群れようとするのではないだろうか。僕は知っている、その不安から逃げ出すことは不可能で、逃げた先にはまた不安が待っているのだ、と。だから僕は逃げずに、ひとり。ひとりだから不安だし、不安だからひとり。袋小路に入ってしまったな。もしかすると、生きるとは袋小路なのだろうか。生きるとは、やはり苦行に違いなく、遣る瀬の無いものなのだろうか。袋小路の中からでは、それはきっと分かるはずのないことなのだろう。