らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

不安なことはそりゃ当然あるけど人生は最高だからについて

今日は個人的なことを書こう。僕はすぐに、一般化、普遍化をしようとする悪癖がある。それは、僕が僕を見たくないためだ。自分自身を見つめることをしたくないからだ。自分が、冷酷で暴虐的な人間だと分かってしまうのだ。しかしその一方で、僕は、自分を顧みようとしない僕に罪の意識を持つ。自分の中に閉じこもり、自分の外だけを見て世界の法則を発見することは、なるほど随分と気持ちのいいことだろう。だが、それで一体何がどうなるというのだろう。表層的な強さなど脆く、儚いものだ。僕たち、とりわけ僕のような人間が何よりしなければならないのは、自らの内部の鍛錬である。さながらそれは、仏教における修行のようなものであるが、僕の場合、そのような宗教を持つ必要はないと考えている。なぜなら僕は、僕によって生じ、そして、僕だけが持つことのできる教えを求めているからだ。その教えに縋ることができたなら、どれほど満たされるだろうか。その教えを露ほども疑わず心の底から信仰し、それに依存することで、どれほど救われるだろうか。

僕は人と話しているとき、思ってもいないことを急に口にしてしまうことがある。つまり、そのとき頭の中で考えてすらいない言葉を喋ってしまうのである。不思議だ、このような言葉はどこから生まれるのだろうか。この無意識的に発生する言葉を口にしたとき、僕は笑ってしまう。内容が面白いわけでなくとも、その突飛さに面白みを感じるのだ。それは誰の言葉なのだろうか、僕の言葉なのだろうか、その不可思議さは僕にこのような疑問を持たらす。いや、これは僕の言葉だ、それ以外に誰のものだというのだ?僕の口から僕の声で発せられる言葉なのだから。そして、この現象は本当に愉快なことだと思っていて、僕が僕で良かったと実感する瞬間のひとつなのだ。普段ひとりでいるときに考えている言葉がそのまま出ているのであれば、理解できなくもない。しかし、この現象の中で僕が口にする言葉は、前触れなく卒爾として現れるのだ。僕は自分のそのような言葉に驚き、新しい気付きを得ることができる。そしてその気付きは、僕に人生の不気味さを教えるが、同時に人生の豊かさについても教えてくれる。すなわち、僕は僕だけの完全な『教え』を構築することなど到底不可能だということだ。なぜなら、僕は僕の全てを知ることは決してできないからである。それをこの現象から理解できるのだ。

では、この言葉は誰から与えられたものだろうか。僕の言葉だとは言ったが、それはそもそも誰から与えられたものなのだろう。僕の思考によるものではないことから、僕が辿り着いた言葉ではないと知ることができる。僕は、それを神からの言葉だと考える。神なんて大仰な単語を使ってしまったが、そう考えるほかないのである。そして、神とは、僕の中に存在している神のことを指す。そう、僕は、僕の中に神がいると考える。しかし、通常、神とは完全性を備えた存在であるが、僕の中の神は不完全な神だ。不完全な僕の中に内包されている神は、当然、不完全だ。ではなぜ、このような不完全な神が自らの内に存在していると考えるのか?それは、その神が持つ絶対性を希求しているからである。

前置きが長くなってしまった。別段、こんなことを言おうと思っていたわけではない。このような話はまた別の時にでも考えようと思う。つまり、絶対性なのだ。不安に打ち克つためには、絶対性が必要なのである。

ここで、僕の実際的な話に立ち返ることにする。僕は、大学入学時に通常よりも1年遅れ、さらに、ここで留年をしてさらに1年遅れることになる。つまり、2年間の遅れとなる。さらに、大学院に進学する人間が大半の中、僕は学部で就職をしようとしている。不安を感じるには充分な状況だろう。僕は不安なのだ。ああ、嫌になる。就活なんてしたくない。エントリーシートも面接も嫌だ。働きたくない。だって社会のこととかどうでもいいし。スーツなんか着たくない。革靴は足が痛くなりそう。第一、時間が長すぎる、最低でも一日8時間ってなんだそりゃ。人と話さなきゃいけないし。擦り切れるまで働いてもサラリーマンなんて生活するのが精一杯だろうし。苦労したくない。仕事が生きがい、そんなのあり得ないから。もう無理無理無理だから。やりたい仕事なんてそもそもない。何か実務的なスキルを持っているわけでもないし。興味ないんだから仕方ない。ずーっと適当に本読んだりゲームしてたり散歩していたい。

どうするのが最適だろうか。あなたならば、こんな僕(クズ)にどのようなアドバイスをしてくれるだろうか。不安に打ち克つには、絶対性が必要だと言った。この絶対性という言葉は、人生の軸とも言い換えられる。つまり、人生の軸がないことがこのような不安を生み出しているのだ。なんということだろう。そろそろ23歳にもなるというのに、僕には軸が存在していないのだ!ではその軸を作ろうではないか、となるが、僕はそれをできる人間ではないことを既に知っている。なぜなら、自分のうちに存在する神などという、抽象的な存在に頼らざるをえない人間だからだ。どうすればいいのだろう。

考えよう。少し文章が口語寄りになってしまうかもしれない。まず、働くか働かないか、だ。働きたくないと言ったが、これはどうしようもない、働くしかない。なぜなら、そうしなければ僕は生きていくことができないからだ。貧乏生まれだし。そうか、僕は就活するしかないのか。簡単なことだな、生きていくために働く、と。単純だな。こんなシンプルなことでこれほど苦しめられるとは。じゃあ、働くほかないなら、どうする。覚悟だ。僕は、その覚悟を決めなければならない。世の中の大勢の人間がしていることに対して、斯様な覚悟を決めなければいけない僕、そしてそれが紛れもなく僕自身だという事実、悲しいことだ。どうしようもない、僕は僕だ。

次。その覚悟を、どうやって決めるか。いや、そもそも僕はなんでこんなに働くことが嫌なのだろう。惑わされていないだろうか。世間の、働くことはしんどいことだという風潮に。一度その考えを排してみようじゃないか。そうすると、おかしなことに気付く。特段僕は、働くという行為に向いていないというわけではないのかもしれない、と。僕はここまでちゃんとやってきたじゃないか、僕は僕なりにしかやれないが、それだっていいのだ。僕をこんな不安な気持ちにさせているのは僕じゃなくて、世間の圧力だ。一時的のものだ。そんなに後ろ向きになることはないじゃないか。そして何より、こんなことを考えたって何も変わりはしないのだ。なぜなら、世界は僕がどうするかに関わらず進んでいくからだ。

やってみなければ分からない。これは全く真実だ。この金言を全面的に信じてみようと思う。やってみよう。とりあえず、やってみよう。僕よ、どうか恐れないでくれ、大きな流れの一筋になることを。どのように流れようと大丈夫だ。その場所で僕に相応しいものがきっと手に入る。喪うことは悪いことじゃないのだ。空いた場所には勝手に何か入ってくるだろう。不安はあって当然だ。神なんているはずもなく、僕の中は全部僕だ。軸なんてあとから作ればいいし、実は無くったって何も困らないのだ。ある方が煩わしい。僕は知っている。人間には『慣れ』という偉大な特性がある。どうにかなる。

最初のほうに言ったように、人生には愉快なことだってあるのだ。そしてそれは、僕ではない誰かが与えてくれる。人生は最高だ。人生は最高なのだから、成功とか失敗とか考えなくていいし、誰かが持っていて僕が持っていないものを羨まなきゃいけない時間なんて全然ない。とにかく進んでみよう。これが僕の結論だ。いちいち僕が僕であることを確認することもない。激流の中で振り返る余裕もない。そもそも、そんなことは終わってみなきゃ分からない。幸せの中に不幸せはあるが、不幸せの中に幸せを見出すことはできない。幸せは続きはしない。それでも、足跡はずっと続いている。人生は最高だから、辛い。人生は最高だから、辛いことばかりでも進んでみよう。