らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

生きるについて

生きるだけで削られる。1週間のうち、4日ほどは生きていられるが、残りの3日は生きていられない。大学に行くまでで削られ、図書館に着いて何をするわけでもなく削られ、帰り道で削られる。僕は僕を失い続けている。僕の欠片は何かになることもできず、ただ腐敗していく。僕は削られ、歪さを増していく。とどのつまり、僕は人間に向いていないのだ。いや、もっと端的に言えば、僕は生きることに向いていないのだ。生きることは偉いことだ。近頃、僕は頓に老人に対して畏敬の念を抱くようになった。彼らが年月を重ねることによって得た知識や教養に対してではない。そういったものは、言うまでもなく敬うべきものであるからだ。僕は、彼らがここまで生きてきたことが、何より素晴らしいと思えてくるようになったのである。彼らは、なぜ生きることに耐えられたのだろうか。手が皺だらけになっても、腰が曲がっても生きる、そのよすがとは一体何なのであろうか。長生きすることは偉大だ。ただそれだけで、偉大だ。

僕は、鼓動を打ち続けるだけで疲弊する。その度に消耗していく。今でさえこれなのに、就職して働くことが可能なのだろうか。無理だと思う。集団の中にいることが苦手だし、全てが茶番に思えてしまう。くだらないことに労力をかけたくもない。このように考えることそのものがくだらないことなのかもしれないが、どうにもここから抜け出せないのである。しかし生きなければならない、減りながらでも生きなければならない。来年の休学期間で、その練習をするつもりだ。つまり、集団の中で茶番を演じる練習を。そんなものは義務教育の期間、小学校、中学校で誰しも身に付けるものなのであろうが、人間、向き不向きというものがあるのだ。もし、僕はそうすることが不可能な人間であるとの結論が出れば、僕はやめるつもりでいる。生きることをやめるわけではない。今のところ、僕は全てをかなぐり捨ててでも生きるつもりだ。何かを求めることをやめようと思うのである。何かを求めなければ、生きることはできると知っているからである。休学の期間で、厚く厚くコーティングして、どうにか耐えられるようになりたいと希うのだ。

生きている確証を与えられながら生きられたなら、どれほど幸せだろうか。僕は、もう諦めている。僕はこういう人間なのだ、と。僕のこういう特性は生来のもので、今後、この症状が治癒することはないのだ、と。しかし、僕は生きなければいけない。僕は自分の言葉を信じることができない。あなたが、生きることがしんどいと言うのであれば、僕はそれに対して相応しいと思う言葉をかけるだろうし、不安を抱えているのであれば、それに耳を傾け、肯定するだろう。だが、僕はそれを僕にしてやることが出来ない。出来ないのではなく、そうしたとしても、僕はそれを信じることができないために、無意味な音の連なりになってしまう。僕の言葉は、僕のために存在していないのだ。したがって、僕が恨むべく、そして、恨んでもいいのはこの僕だけなのだ。それ以外の何かを恨むことは許されない。しかし、恨みの先にあるのは、さらに邪悪な恨みだけだ。そうすると、この辺りでやめておくべきなのだろう。

僕は生きなければいけない、これだけは信じるべきなのだ。しかし、僕は耐えられないかもしれない。心の底から信じることができないかもしれない。死は救い、本当にそうだろうか。耐えられなくなった人間は、死を以てはじめて救われるのだろうか。それは完全に間違っている、と僕は断定することができる。救いとは、生の中のみに存在するものである。なぜなら、それは心の中でしか生まれえないからだ。生きてさえいれば、救いの時は訪れるのだ。どれほどの絶望の中にいようと、生きてさえいれば、その瞬間は必ずやってくる。たといその光が僅かであろうと、あなたはそれによって強く照らされ、再び歩き出すことができるのだ。その時あなたは、あなたを受け入れることができ、そして、その瞬間に永遠を感じるだろう。僕たちは、この連続な世界で生きている。信じられるだろうか。絶望の中にいるあなたが、希望を持って生きられるようになると。地続きで繋がっている過去と未来の中で、本当に絶望は希望に繋がっているのだろうか。信じるほかないのだ。今はそうするほかないのだ。長い目で見ることだ。なぜなら、僕たちは生きなければならない。

どれだけ削られても、真っ赤なままで燃え続ける命の熾火!