らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

誕生日について

人はそれぞれ誕生日というものを持っている。誰でも、持っている。僕も、持っている。しかし僕は、自分の誕生日を祝うべき特別な日だとは思っていない。僕の誕生日はモロモロの行事で忙しい時期と被っていて、それ故に誕生日を祝われたという経験もあまりない。それでもときどき誕生日おめでとう、と言われることはあるが、僕はそれに戸惑い、なぜか極まりが悪くなってしまう。なぜ誕生日という日を祝うのか、その明確な理由が分からないからだ。

小学生低学年の時、クラスメイトの誕生日を祝う会のようなものが毎月開催されていた。4月には4月が誕生日の生徒を祝い、5月には5月が誕生日の生徒を祝い、といった風に。僕がいつ頃から誕生日を祝うことに対して違和感を持っていたか憶えてないが、このような会が開かれる頃には既にそれは存在していたと思う。よく分からなかった。なぜその月が誕生日の人間をクラスメイトの前に出てこさせて、彼らに向けておめでとうと拍手するのか。

少し話が逸脱するが、その会ではジュースがいくつか用意されていて、学校に居るのにジュースを飲んでもいいという例外的な時間だった。ファンタやコーラ、お茶などが用意されていた。僕は炭酸があまり好きではなかったので、今も好んで飲みはしないが、だいたいお茶かスポーツドリンクを選んで飲んでいた。その中にはジンジャーエールも用意されていた。僕はジンジャーエールを飲んだことはない。しかし、ジンジャーエールを飲食店のメニューや、スーパーで売られているのを見るとなぜか違和感が込み上げてくる。僕はここで誕生日について考えることで、この違和感の原因を突き止めることができた。なぜか、ある一人の友達がその会でジンジャーエールを飲んでいたことを、強く憶えている。ジンジャーエールの泡が紙コップの中で弾け飛んでいるのを……。なぜ憶えているのかは分からないが、このときの記憶がジンジャーエールを見た僕に違和感を与えるのだ。ジンジャーエール、それは僕にとっては誕生日に対する違和感だ。

でも、それが分かったところで何も変わりはしない。依然として、誕生日を祝う理由が分からないからだ。例えば、僕が親だとする。そうすると、自分の子供が1つ1つ年を重ねて、成長していくのはなるほど喜ばしいことかもしれない。それは、自分の子供を掛け値なしに愛しているだろうからである。つまり、自分の誕生日を祝えないのは、自分を愛していないからなのであろうか。僕は他人の誕生日も祝うことができない。なぜ、その人が生まれた日はその人におめでとうと言わなければいけないのか。それはつまり、僕が誕生日におめでとうと言われたとしても、それを純粋に受け取ることができないことの裏返しである。しかし、僕は他人に対して、誕生日おめでとう、と言うこともある。つまり、わざとらしくマニュアル的にそう言うのだ。そう言ったとき、僕は自分が酷薄であることを認識する。すなわち、僕は冷たい人間なのである。僕は自分を愛せず、そして他人を愛することもできない。世の中の人間が、容易く他人の誕生日を祝い、おめでとうと口にすることが嘘のように思えてしまう。逆なのかもしれない。逆、彼らは誕生日を祝うことを理由にして、きっかけを求めているのかもしれない。僕はそれをしようとは思わない、誕生日を祝うことの正しさを理解したい。理解したいが、僕がその理解に至ることは決してありえない。なぜなら、慈しみというものが備わった人間ではないからだ。

あなたの誕生日がいつなのかは知りませんが、まあとにかく、誕生日おめでとうございます。慣習に則って、心にもないことを言っておきます。