らうんどあばうと

ラウンドでアバウトでランデブー

クリスマスあるある早く言いたいについて

僕たちは言葉を操っているのではなく、言葉に操られているのだと思うことがある。僕たちは、それぞれの状況において適切だと記憶している言葉を口から発しているだけだ。ある特定の状況を思い浮かべてみよう。例えば、冠婚葬祭の場。この場合は顕著だ。葬式では、僕たちは遺族に対して、お悔やみ申し上げます、あるいはこれに近しいことを言う、いや、言わせられる。しかし、冠婚葬祭を例にとってしまうと、僕が主張していることは分かりづらいかもしれない。なぜなら、それは形式的な儀式であることが多く、そのような場で発する言葉はどうしても形式的になり、限定されてしまうからだ。あなたが学生であるならば同級生、教師との会話を、そうでないならば職場の同僚や近所の住人との会話を思い出してもらうのが適切だろう。そのような日常の会話の中ですら、僕たちは自らの言葉を持たない。僕たちは、その会話の流れでどのような言葉を用いるのが適切かを、これまでの経験から理解しており、その中から一つを選びとって相手に伝える。そうして発せられた言葉は、果たして僕たちの言葉と言えるだろうか。相手が自分にとってそれほど重要でないのであれば、システマチックであればあるほどいいのかもしれない。そうすることでむしろ、より円滑な関係になることができるからである。しかし、友人、あるいはそれ以上の関係の人との会話においても、このような上辺だけの言葉を用いてはいないだろうか。僕たちは、言葉に対して真摯でいなければならない。僕たちは自分の感情を言葉にして伝えようとするが、感情から言葉へと変換する際にきっと多くのものが失われている。全てを伝えることなど到底できない、しかし、そうであるからこそ、僕たちはお互いを分かり合おうとしてもがくのではないのか。大切な人の前で借り物の言葉を発することは怠惰で、傲慢そのものである。冠婚葬祭を、形式的な儀式と言った。クリスマスが近付いてきた。クリスマスも、特に恋人たちにとっては形式的な儀式と言っていいのではなかろうか。クリスマス、恋人たちは2人だけの世界に入り、その愛を深めようとする。これはどうだろうか?クリスマスというイベントを利用した形式的な愛は、怠惰で傲慢なのだろうか?いや、そうとも言えないだろう。幸せであることが一番なのだ。幸福は全てを上書きにする。そして、当然、恋人を持たない人間もこのクリスマスという日を過ごさねばならない。近頃は、クリスマスは家族で、という考えも広まっているが、依然として、恋人を持たない人間は疎外感を持ってしまうのだろうか。僕自身、状況としては恋人を持たない人間の側に分類される。しかし、実のところ、僕はそういった考え方は全く理解しかねる。なぜ、そのような感情を抱くのだろうか。僕にとっては、彼らの言葉は全て形式的で聞くに値しない。なぜだろうか。彼らは疎外感を嫌い、疎外感の中に居ながらにしてそれを共有しようとしている。だが、その実、共有しようとすること自体が疎外感を生んでいるのである。そう、この矛盾が僕は気に入らない。間違っているとは全く思わないが、僕はこれが気に入らないのである。まあ、どうでもいいか。